「悼公 (晋)」の版間の差分

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[[欒書]]と[[中行偃|荀偃(中行偃)]] によって[[レイ公 (晋)|厲公]]が殺されると、晋に迎えられて君主となった。
[[文公 (晋)|文公]]の治世を理想とし、[[韓厥]]や[[智オウ|智罃]]を正卿に、[[魏絳]]を中軍司馬に、[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]を世子の彪(後の[[平公 (晋)|平公]])の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え<ref>『[[春秋左氏伝]]』成公18年</ref>、諸侯と会盟し[[狄]]と和を結ぶなど、[[エン陵の戦い|鄢陵の戦い]]以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳の若さで死去した。
 
晋の最後の名君と謳われたが、悼公の時代は[[鄭]]や[[楚 (春秋)|楚]]、[[秦]]などとの戦いが続き戦果は芳しくなく、国内では公室の力が弱まり大夫や貴族たちの力が増大した。