「篠脇城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
27行目:
『大和村史』によれば初代・[[東胤行]]の晩年に築城が始まり、[[14世紀]]前半の四代・[[東氏村]]のとき本格的に城が完成して移住したとされる。[[1468年]]([[応仁]]2年)には[[斎藤妙椿]]に攻められて落城したが、関東に在陣していた[[東常縁]]がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。[[1471年]]([[文明_(日本)|文明]]3年)から[[1477年]](文明9年)にかけて、[[宗祇]]が篠脇城に常縁を訪ねて[[古今伝授]]を受けている。
 
[[1540年]]([[天文_(元号)|天文]]9年)に[[越前国]]から[[朝倉氏]]が来攻したが、城主・[[東常慶]]の指揮の下、{{要出典範囲|date=2014年9月|放射状竪[[堀]]から巨石を投下し、撃退したといわれている。しかし、これによって}}城自体の破損が著しく、翌[[1541年]]に朝倉氏の再来攻の際は、[[油坂峠]]で迎撃している。常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の[[赤谷山城|赤谷山に築城]]して移転し、篠脇城は廃城となった。
 
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、[[郡上八幡城]]を本拠としている。
49行目:
* [[東氏]]
* [[郡上市]]
* [[赤谷山城]]
 
== 参考文献 ==
*[[日本歴史地名大系]](オンライン版) [[小学館]]
 
{{Japanese-history-stub}}