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[[Image:Petrarch by Bargilla.jpg|right|thumb|200px|ペトラルカ]]
 
'''フランチェスコ・ペトラルカ'''('''Francesco Petrarca''', [[1304年]][[7月20日]] - [[1374年]][[7月19日]])は、[[イタリア]]の[[詩人]]・[[学者]]・[[人文主義者]]。ペトラルカは、学者としては[[キケロ]]に範を取って[[ラテン語の文法]]を整備し、また詩人としては一連の[[抒情詩]]集([http[://it.wikipedia.org/wiki/:Canzoniere_(Petrarca) |カンツォニエーレ]])を物した。なお、「ペトラルカ」とはラテン語式に付けた名で、本名はフランチェスコ・ペトラッコ (Francesco Petracco) 。
 
== 生涯 ==
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[[1326年]]に父の死を受けて、ペトラルカは[[教皇庁]]のあるアヴィニョンへ戻り、経済上の理由から[[コロンナ家|ジョヴァンニ・コロンナ]]ら、カトリックの聖職者のもとで書記として働いた。法学の勉強をやめていた。その後は休む暇なく執筆や読書に勤しんだ。ペトラルカは詩人また学者として名声を博し、[[1341年]]には[[ローマ]]カンピドリオの丘において[[桂冠詩人]](poeta laureatus)の栄を受けた。
 
ペトラルカの作品で、もっとも知られる作品はラウラと呼ばれる女性へ捧げられた一連の恋愛[[抒情詩]]群である。これは『カンツォニエーレ』(''[http[://it.wikipedia.org/wiki/:Canzoniere_(Petrarca) |Canzoniere]]'', 歌の本)と題された詩集にまとめられている。
[[1327年]]、アヴィニョンのある教会でペトラルカはラウラの顔を初めて見たというが、この女性についてはほとんど知られていない。ラウラが実際に誰かについては諸説あり、ラウラという名前は、ペトラルカがこの女性に与えた変名である可能性もある(恋愛詩において相手の女性を匿名にすることは古典期のラテン詩人にも類例がある)。謎の恋人とペトラルカは、実際には交際を持たなかった可能性が強い。ペトラルカとラウラはその後、会うこともなく、[[1348年]]にラウラは死亡したという。ペトラルカはその後も、ラウラを失った悲嘆を歌う詩など、ラウラへ充てた詩を書き続けた。