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== 0歳から3歳時まで ==
ガロピンは1872年にウイリアム・テイラー・シャープによって生産された。当初は低い評価しかされておらず当歳時には僅か100[[ギニー]]で売却されており、た。イヤリングセールにて売り出されるとでは[[ハンガリー]]の[[貴族]][[バッチャーニ・グスツァフ]]によって520ギニーの掘り出し価格で購入されている。その後バッチャーニの専属調教師ジョン・ドーソンによる調教を受け、たくましい馬体の持ち主に成長した。
 
エプソムでデビュー戦を迎えると引退まで現役時代は1847年から75年かけ11戦10勝の成績を残した。うち2歳時が6戦5勝、3歳時が5戦5勝。唯一の敗戦は馬場に脚をとられたミドルパークプレートのみで、2歳時はハイドパークプレート、フェルンヒルステークス、[[ノーフォークステークス|ニューステークス]]と連勝し6戦5勝。翌3歳になると強さに研きがかかり初戦の[[マッチレース]]を8馬身差で圧勝、唯一[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録を行っていたエプソムダービーに向かった。バッチャーニは[[三冠 (競馬)|三冠]]路線にはあまりこだわっておらず、2000ギニー、セントレジャーステークスには登録されていなかった。このため競走成績マッチレースなどが多い。しかし、唯一[[クラシック (競馬)|クラシック]]登録を行っていたエプソムダービーは完勝した。
 
10月のニューマーケットダービー後、バッチャーニはこのころ心臓を悪くしており、お気に入りのガロピンが負ける姿を見せたくないというドーソンの配慮によってこの年限りで引退し種牡馬となった。なお、同世代の[[ハンプトン (競走馬)|ハンプトン]]とは、ハンプトンが当時下級戦を抜け出せず、先にガロピンが引退したため未対戦に終わった。
エプソムダービーでは一番人気に押された。しかし、前日ミスで冷たい水を与えてしまい体調を崩してしまう。焦ったジョン・ドーソンはガロピンに毛布を掛け翌日のダービーに臨んだ。この甲斐あってか翌日体調を持ち直すと、直線で後続を完封し第96代[[ダービーステークス|エプソムダービー]]優勝馬になった。この後ニューマーケットダービーで同世代の[[セントレジャーステークス]]優勝馬クレイグミラーを下し同世代では抜けた強さがあることを証明している。
 
バッチャーニはこのころ心臓を悪くしており、お気に入りのガロピンが負ける姿を見せたくないというドーソンの配慮によってこの年限りで引退し種牡馬となった。なお、同世代の[[ハンプトン (競走馬)|ハンプトン]]とは、ハンプトンが当時下級戦を抜け出せず、先にガロピンが引退したため未対戦に終わった。
 
== 引退後 ==
現役時代は優れた成績を残したガロピンだったが種牡馬となってからは一転不調に陥る。血統が悪かったこと、気性難で知られていたブラックロックやヴォルテイアーの強い[[インブリード]]を持つこと等が嫌われ種付数は年に10数頭、[[馬主]]のバッチャーニの持ち馬との交配ばかりだった。1887年には後から種牡馬入りしたハンプトンに先に種牡馬チャンピオンの座を取られている。

しかしガロピンは不利な情勢から徐々に成績を伸ばし[[1883年]]には[[2000ギニー]]に勝ったガリアードを送り出した。さらに翌[[1884年]]には[[セントサイモン]]が圧倒的なパフォーマンスを見せ着実に大種牡馬の道を歩いていった登場。1888,89年にはついにリーディングサイアーを獲得したが、翌年には産駒のセントサイモンが僅か2世代のみでリーディングサイアーを奪取、以後7年連続(計9回)のリーディングサイアーになっているしたことで首位から陥落した。ガロピンはセントサイモンが大成功を収める中1899年に28歳で死亡。死の前年の1898年には高齢ながらセントサイモンを破りリーディングサイアーに返り咲いた。また、死後1899,1909,10年にリーディングブルードメアサイアーを獲得している。
 
産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、ガロピン・セントサイモン親子があまりに成功しすぎたために起きた「[[セントサイモン#セントサイモンの悲劇|セントサイモンの悲劇]]」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。現在父系子孫は[[タップダスシチートサイモン系]]の他[[プレザントドから英ダフェクトビー馬[[ラヴァンダン]]を初めと経由した[[リボー]]等末裔として東欧で長く命脈を繋ぎ、21世紀初頭まで僅かながら残ってい
 
ガロピンの血は、後にセントサイモンを経由し全てのサラブレッドに浸透した。セントサイモンの血を受けず、ガロピンの血が濃い種牡馬としては、ガリアード、[[バヤルド (競走馬)|バヤルド]](母の父がガロピン)、[[オーム (競走馬)|オーム]](母の父がガロピン)、レンバーグ(母の父がガロピン)、フライングフォックス(ガロピンの3×2)らが居る。
産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、ガロピン・セントサイモン親子があまりに成功しすぎたために起きた「[[セントサイモン#セントサイモンの悲劇|セントサイモンの悲劇]]」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。現在[[タップダンスシチー]]、[[プレザントリーパーフェクト]]を初めとした[[リボー系]]等が末裔として残っている。
 
繁殖馬の影響度を示す指標にも使われるヴェイエの標準ドサージュでは405ポイントとなっている。セントサイモンにより大幅に加算されているとはいえ、タッチストンやストックウェルを大きく上回っており、19世紀の種牡馬としてはセントサイモンに次ぐ数値である。
ガロピンのサラブレッドへの影響力はかなりのもので、後にセントサイモンを経由し全てのサラブレッドにその血が浸透した。ただし、セントサイモンを抜きにしても相当の種牡馬だった事は確かで、ガリアード、[[フライングフォックス]]、[[バヤルド (競走馬)|バヤルド]]他を通じて、セントサイモンを経由する血量とほぼ同等の血量を残している。ヴェイエは自身のドサージュ理論中でセントサイモンに継ぐ2番目の値を与えた。
 
=== 代表産駒 ===