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== 0歳から3歳時まで ==
ガロピンは1872年にウイリアム・テイラー・シャープによって生産された。当初は低い評価しかされておらず、当歳時には僅か100[[ギニー]]で売却され
10月のニューマーケットダービー後、バッチャーニはこのころ心臓を悪くしており、お気に入りのガロピンが負ける姿を見せたくないというドーソンの配慮によってこの年限りで引退し種牡馬となった。なお、同世代の[[ハンプトン (競走馬)|ハンプトン]]とは、ハンプトンが当時下級戦を抜け出せず、先にガロピンが引退したため未対戦に終わった。▼
▲バッチャーニはこのころ心臓を悪くしており、お気に入りのガロピンが負ける姿を見せたくないというドーソンの配慮によってこの年限りで引退し種牡馬となった。なお、同世代の[[ハンプトン (競走馬)|ハンプトン]]とは、ハンプトンが当時下級戦を抜け出せず、先にガロピンが引退したため未対戦に終わった。
== 引退後 ==
現役時代は優れた成績を残したガロピンだったが種牡馬となってからは一転不調に陥る。血統が悪かったこと、気性難で知られていたブラックロックやヴォルテイアーの強い[[インブリード]]を持つこと等が嫌われ種付数は年に10数頭、[[馬主]]のバッチャーニの持ち馬との交配ばかりだった。1887年には後から種牡馬入りしたハンプトンに先に種牡馬チャンピオンの座を取られている。
しかしガロピンは不利な情勢から徐々に成績を伸ばし[[1883年]]には[[2000ギニー]]に勝ったガリアードを送り出した。さらに翌[[1884年]]には[[セントサイモン]]が 産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、ガロピン・セントサイモン親子があまりに成功しすぎたために起きた「[[セントサイモン#セントサイモンの悲劇|セントサイモンの悲劇]]」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。
ガロピンの血は、後にセントサイモンを経由し全てのサラブレッドに浸透した。セントサイモンの血を受けず、ガロピンの血が濃い種牡馬としては、ガリアード、[[バヤルド (競走馬)|バヤルド]](母の父がガロピン)、[[オーム (競走馬)|オーム]](母の父がガロピン)、レンバーグ(母の父がガロピン)、フライングフォックス(ガロピンの3×2)らが居る。
▲産駒はセントサイモンの他にもガリアードが種牡馬として成功し、ガロピンの直系は大繁栄したが、ガロピン・セントサイモン親子があまりに成功しすぎたために起きた「[[セントサイモン#セントサイモンの悲劇|セントサイモンの悲劇]]」の影響で一時イギリス国内で滅亡するに至った。現在[[タップダンスシチー]]、[[プレザントリーパーフェクト]]を初めとした[[リボー系]]等が末裔として残っている。
繁殖馬の影響度を示す指標にも使われるヴェイエの標準ドサージュでは405ポイントとなっている。セントサイモンにより大幅に加算されているとはいえ、タッチストンやストックウェルを大きく上回っており、19世紀の種牡馬としてはセントサイモンに次ぐ数値である。
=== 代表産駒 ===
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