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[[ナポレオン]]体制の崩壊により、フランクフルトは1813年12月14日に戦勝連合国によってフリードリヒ・マクシミリアン・フォン・グリュンダーローデの支配下に置かれた。
[[ファイル:Nationalversammlung in der Paulskirche.jpg|left|200px|thumb|1848年のパウルス教会でのフランクフルト国民議会]]
[[ウィーン会議]]で[[バイエルン王国]]はフランクフルトの併合を目論んだが、[[1815年]]6月8日に会議はフランクフルトを[[ドイツ連邦]]内の自由都市とすることを決定した。これによりフランクフルトは[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]、[[リューベック]]と並ぶ 4つの自由都市の一つとなった。この伝統的な都市自由権は近代に至るまで存続した。ドイツ連邦の連邦議会はフランクフルトで開催された。[[1848年]]、ドイツで[[ドイツ革命 (における1848年)革命|3月革命]]が起こった。招集された[[フランクフルト国民議会|国民議会]]はフランクフルトの[[パウロ教会|パウルス教会]]で開催された。
 
[[1866年]]の[[普墺戦争]]では、フランクフルトは連邦に忠実であった。公式な立場はオーストリアや皇帝の側であったが、経済や外交的理由からプロイセンとの連携を支持するべきだとの意見が古くからあった。この街は7月18日にプロイセンのライン軍によって占領され、重い軍税を課された。10月2日にプロイセンはこの都市を併合し、これによりこの都市の独立は失われた。フランクフルトはヘッセン=ナッサウ州ヴィースバーデン県に編入され、軍税の支払いはその後免除された。[[1868年]]にプロイセンは、上級市長を市の代表者とする市参事会制度をフランクフルトに布いた。[[1871年]]、[[普仏戦争]]は[[フランクフルト講和条約]]をもって公式に終結した。