「西突厥」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎2度目の2可汗並立: 「大いに戦う」に近い表現に
98行目:
 
===2度目の2可汗並立===
貞観12年([[638年]])、西部竟は欲谷設を立てて[[乙毘咄陸可汗]](在位:[[638年]] - [[653年]])とした。乙毘咄陸可汗が立つと、沙鉢羅咥利失可汗と大規模な闘に入り、両軍の多くが死に、各々撤退した。これ({{仮リンク|イリ川条約|en|Ili River Treaty}})によって、沙鉢羅咥利失可汗と二分し、伊列河([[イリ川]])以西は乙毘咄陸可汗に属し、伊列河以東は沙鉢羅咥利失可汗に属した。乙毘咄陸可汗は可汗庭(首都)を鏃曷山の西に建て、北庭とした。厥越失,拔悉弥(バシミル),駁馬,結骨(キルギズ),火燖,触木昆(処木昆)の諸国は皆これに臣従した。
 
貞観13年(639年)、沙鉢羅咥利失可汗の吐屯俟利発(トゥドゥン・イルテベル:官名)は乙毘咄陸可汗と密通し造反した。沙鉢羅咥利失可汗は拔汗那国に逃れたが死去した。弩失畢部落の酋帥は沙鉢羅咥利失可汗の弟の伽那の子である薄布特勤を迎えてこれを立てて、[[乙毘沙鉢羅葉護可汗]](在位:[[640年]] - [[641年]])とした。