「真田信之」の版間の差分

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* 明治になって真田家伝来の家康拝領の短刀が入っていると思われていた長持に、三成からの書状など真田家にとって不利になる危険な機密書類が納められていた事実が判明した。生前から叔母の夫である三成とは懇意の仲で手紙のやり取りが多かった。これらを寝ずの番を付けてまで保管しており、松代移封を不服に思い藩政の重要書類を焼き捨てた信之が、徳川に対する反骨の意味で隠したものだと言われている<ref>長野県.真田宝物館。</ref>。ただし、上述のように松代への移封を信之が不満に思っていたというのは事実ではない。
* [[徳川頼宣]]<ref>『[[名将言行録]]』</ref>は信之の事を尊敬しており、自邸に招いては武辺話を熱心に聞いたという。後に信之は頼宣の子の[[具足親]]になったとされる逸話が残っている。
* 老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に[[酒井忠世]]や[[酒井忠勝 (若狭国小浜藩主)|酒井忠勝]]から将軍・[[徳川家綱|徳川家綱]]が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった。隠居を認める際、家綱は信之を「天下の飾り」と表現している{{Sfn|平山優|2016|p=394-395}}。しかし、後継者となった信政はいつまでも家督が譲られないため父に恨みを抱き、家督相続後間もなく死去した際の遺言でも残った老父のことには一切触れなかった。この遺言を読んだ信之は、大いに立腹したと伝えられている{{Sfn|平山優|2016|p=399-400}}。
* 信之が死去した際は、家臣のみならず百姓までもが大いに嘆き、周囲の制止を振り切って出家する者が続出したという。百姓や町人も思い思いに冥福を祈る仏事を行ったとされ、家臣や領民にも慕われる名君であったと伝えられている{{Sfn|平山優|2016|p=404-405}}。
 
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