「真田信之」の版間の差分

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* いわゆる「真田の[[赤備え]]」は弟・信繁が[[大坂の陣]]で用いたのが有名だが、文禄2年([[1593年]])に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、[[指物]]はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた{{Sfn|平山優|2016|p=113-114}}。
* 2度の[[上田合戦]]や[[大坂の陣]]において真田家が徳川軍を苦しめたことや、大坂の陣の際には上田藩内から豊臣方に付いた弟・信繫に内通したり、信繫の下に馳せ参じた者がいた(信之はこれらの者を厳しく断罪している{{Sfn|平山優|2016|p=322-331}}。)ことから幕府に睨まれることが多く、そのために献身的に幕府の公役を務めたといわれる。
* 松代への転封に不服を持ち<ref group="注釈">[[小諸藩]]主であった[[仙石忠政]]が幕府に対し、自身の上田領への転封を願い出てこれが通ってしまった結果、真田氏は代々の土地である上田から立ち退くこととなったため、と言われている。</ref>、検地資料などの重要書類を焼き捨てた上で、さらに上田城の植木や燈籠などを全て引き抜き、持ち去ったと言われる。しかし、これらの逸話は出典がはっきりしておらず、実際は後に入った仙石氏には引継書類が引き渡されている。原則として転封の際の引継書類は前の藩主が一度幕府に提出し、検分を受けてから次の藩主に引き渡される(幕府への引き渡しがないと、家の存続にかかわる重大な事態になりかねない)ため、重要書類を破却したのは事実ではない{{Sfn|平山優|2016|p=343}}。また松代への移封は加増されているとは言え、[[徳川秀忠]]の嫌がらせの1つとされているが、実際は[[松代城]]は祖父・[[真田幸隆|幸隆]]が参戦した川中島ゆかりの城で、信之以前は家康の子・[[松平忠輝]]や[[越前松平氏]]の[[松平忠昌]]、左衛門尉系[[酒井氏]]の[[酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)|酒井忠勝]]といった[[親藩]]や[[譜代大名|譜代]]の名門が配された要衝であることから、むしろ秀忠が信之を要地を任せるに足る人物だと評価していたことを示すものである。信之自身も重臣の[[出浦盛清|出浦昌相]]に「誠に家の面目であり、何も言うことがないほど光栄なことだ(「誠家之面目外実共残無仕合ニ而」)」と書き送っている{{Sfn|平山優|2016|p=342-346}}。ただ、同時期に[[小野お通]](初代)へ当てた手紙では故郷の地を離れる心細さが吐露されている{{Sfn|平山優|2016|p=347-348}}。
* 松代へ移封した際には20万両を持って入封したが、妻の小松姫と共に倹約家として有名であった。また、九度山へ配流された父弟にも生活が困らぬよう自費で生活援助を行っていた。
*信之は書や詩歌に通じていた京都の才女・[[小野お通]](初代)と親交があった。信之が上田から松代へ転封になった際、お通から見舞状を受け取った信之は、返書に松代藩領の[[川中島]]は[[西行]]が歌に詠んだ地であり、他にも[[姥捨山]]や更科の月、善光寺といった名勝が領内にあるので、ぜひとも松代に下って来てほしいと綴り、お通に松代へ来るよう誘っている{{Sfn|平山優|2016|p=347}}。
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