「デルタ・ブルース」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2014年1月}}
{{Otheruses|ブルースミュージックの一種|日本の競走馬|デルタブルース}}
[[image:IBelieveI'llDustMyBroom.jpg|thumb|right|[[ロバート・ジョンソン]] 「ダスト・マイ・ブルーム」]]
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初のレコーディングは1920年代から行われた。この時代ライブではバンド形態でプレイすることもあったものの、レコーディングの場合は一人のミュージシャンが自分でギターなどを演奏しながら歌うことが多かった。
 
(一応、形の上では)[[奴隷]]から解放された[[アフリカ系アメリカ人]]たちが季節労働者としてミシシッピ河口から[[アーカンソー州|アーカンソー]]、[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]、[[テキサス州|テキサス]]、[[テネシー州|テネシー]]にかけて恒常的に移動する慣習があったが、デルタ・ブルース<ref>http://www.allmusic.com/style/delta-blues-ma0000002549</ref>のミュージシャン達もその例に漏れず、南部地域を旅して周った。その結果この音楽はあちこちに広まり、[[スキップ・ジェームス (ミュージシャン)|スキップ・ジェームス]]、[[エルモア・ジェームス]]など(厳密には)デルタ地域出身でないデルタ・ブルースミュージシャンも生まれるようになる。後期になるとアメリカ中にデルタ・ブルースは広がり、特に多くの[[アフリカ系アメリカ人]]が移住していった[[シカゴ]]、[[デトロイト]]などの北部都市に根付き独自のブルース('''[[シカゴ・ブルース]]''')へと進化してゆく。
 
学者などの間では、初期のデルタ・ブルースと後期の北部都市ブルースおよび西海岸ブルースとの間に音楽的な区別があるか無いかは意見の分かれる所である。確かに、基本的なハーモニー構造([[ブルー・ノート・スケール]]、[[スリー・コード]]など)はデルタ・ブルースもその他のブルースもほぼ同じである。しかし、シンプルな(アコースティック)ギター奏法や、[[リズム]]を強調したデルタ・ブルースに、他ブルースとの明確な差異を認める者も多い。
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逃亡・反乱を企てたり、集会を開いたり、その他主人にとって ’好ましくない’行動をとった者は「パーチマン農場([[:en:Parchman Farm|Parchman Farm]])」と呼ばれるミシシッピ州立[[刑務所]]に収監された。実際その刑務所に入った経験を歌ったアーティスト;[[:en:Bukka White|Bukka White]](「Parchman Farm Blues」)、[[レッドベリー]](「Midnight Special」)もいる。[[ポップ・ミュージック]]において、サブカルチャーを生み出した初の音楽でもある。
 
==主なミュージシャン==
*[[チャーリー・パットン]]
*[[ロバート・ジョンソン]]
*[[チャーリー・パットン]]
*サン・ハウス
*[[ブラインド・レモン・ジェファーソン]]
*[[ブラインド・ウィリー・ジョンソン]]
*[[ブラインド・ブレイク]]
*[[スキップ・ジェームス (ミュージシャン)|スキップ・ジェームス]]
*[[エルモア・ジェームス]]
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* [[カントリー]]
* [[デルタブルース]] - 日本の競走馬。本記事名が名の由来。
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
{{music-stub}}