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[[226年]]に曹丕が崩御すると、後を継いだ[[曹叡]](明帝)から長平侯に封じられた。同年、侵入した呉の審悳を破り斬首し、[[韓綜]]を降参させた。この功で[[大司馬]]に昇進し、所領の加増を得た。
 
[[228年]]、[[司馬懿]]とともに二方面から呉征伐の任に当たったが、偽りの帰順をした呉の[[周魴]]の誘いを信じて、10万の兵を率い呉領深くの皖城まで進軍させた。駆け付けたばかりの[[賈逵 (魏)|賈逵]]は周魴を疑い、曹休の敗北に備え進軍した。賈逵の予想した通り、周魴の罠に嵌った曹休の軍勢は[[陸遜]]軍の挟み撃ちに遭い大敗したが、当時配下であった[[王凌|王淩]]の奮戦と、賈逵が援軍に駆け付けたことにより、曹休の命だけは助かった。この時、曹休は「賈逵の進軍が遅過ぎたからだ」と逆恨みしたと言う<ref>『三国志』「魏書」賈逵伝注引にある『[[魏略]]』より。</span></ref>。やがて曹休は、敗戦のショックにより悪性の[[悪性腫瘍|腫瘍]]を患い、それが原因で間もなく死去した。壮侯の[[諡号]]を贈られた。
 
==陵墓==