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(新しいページ: 「'''蕭範'''(しょう はん、498年 - 549年)は、南朝梁皇族。鄱陽王。は世儀。 == 経歴 ==...」)
 
蕭範は学問や才芸を身につけなかったが、而以籌略自命、古物を愛好し、文才ある者を招き集めた。[[541年]]([[大同 (梁)|大同]]7年)、使持節・都督雍梁東益南北秦五州諸軍事・鎮北将軍・[[雍州]]刺史として出向した。[[547年]]([[太清]]元年)、[[東魏]]に対する[[北伐]]がおこなわれると、蕭範は使持節・征北大将軍・総督漢北征討諸軍事となり、穣城に進攻した。ほどなく安北将軍・[[南豫州]]刺史に転じた。[[侯景]]が渦陽で[[慕容紹宗]]に敗れ、寿陽に撤退すると、翌年に蕭範は[[合州]]刺史となって、合肥に駐屯した。蕭範は侯景の叛心を見抜いてたびたび上奏しようとしたが、[[朱イ|朱异]]に握りつぶされて武帝に届かなかった。
 
侯景が建康を包囲すると、蕭範は子の蕭嗣と[[裴之高]]らを建康の援軍に向かわせた。[[549年]](太清3年)、[[開府儀同三司]]の位を受け、征北将軍の号に進んだ。建康が陥落すると、蕭範は合肥を放棄して、東魏の援兵を求め、2子を人質として派遣した。東魏は合肥を占拠したが、蕭範を助けようとはしなかった。蕭範は進退極まって、西上して軍を樅陽に置き、尋陽王[[蕭大心]]と連絡した。蕭大心は九江に帰るため、蕭範とともに西上しようと信書を書き送った。蕭範は軍を率いて湓城に到達したものの、交通を遮断され、かれの率いる軍では多くの餓死者を出した。蕭範自身も憂憤の末に背中に膿瘍ができて死去した。享年は52。
 
== 子女 ==