「ドゥーマ」の版間の差分

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[[日露戦争]]中の[[ロシア第一革命]]に対する回答として、時の皇帝[[ニコライ2世]]は[[1905年]][[8月6日]]にドゥーマの召集を布告した。彼はこの組織を[[立憲君主国]]の議会とは異なり、諮問機関にすぎないと考えていた。ツァーリはドゥーマに立法機能と視察権を与えたため、ある程度は他国の下院議会と同様の働きを有していた。
 
しかし、ニコライ2世には自身の権限をドゥーマに委譲する考えは持ち合わせていなかった。1906年5月にドゥーマが開催される直前、ニコライ2世は[[国家基本法|1906年憲法]]を発布し、内閣を構成する国務大臣はドゥーマにより任命されることはなく、ドゥーマに対して責任も有しないと規定した。これにより[[議会制民主主義]]は根底から否定された。それに加え、ツァーリにはいかなる時でもドゥーマを解散、再選挙を行う権限が付与されていた。
 
第一回議会選挙は1906年73月に開催され、社会主義政党およびリベラル派が大勢を占めた。これを嫌ったツァーリにより数週間後に議会は解散された。第2回議会は翌年2月に開かれたが、これも短命に終わった。非常特権を利用して[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相は選挙法を改正し、貴族即ち地主に有利な選挙権を作成した。これにより、第3回議会では[[ジェントリ]]<!-- ? -->、地主、大商人が議会を支配することになった。
 
[[1907年]]から[[1912年]]まで「[[十月党]]」(「[[オクチャブリスト]]」 {{lang|ru|Октябристы}}, 正式名称「[[十月十七日同盟]]」 {{lang|ru|Союз 17 Октября}})が保守的路線を敷いて議会を支配した。ストルイピンの暗殺、ツァーリの反動傾向によりドゥーマの権威は芳しいとは言えないものだった。
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[[Image:tauride duma.jpg|center|700px|thumb|[[サンクトペテルブルク]]、[[タヴリーダ宮殿]]に置かれた国会議事堂([http://web.archive.org/web/http://www.encspb.ru/image.php?file=big/_1215.JPG 現在の画像])]]
 
{{DEFAULTSORT:とうま}}