「岡林信康」の版間の差分

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== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
父親は[[新潟県]]の出身で30歳まで新潟で[[農業]]をしていた<ref name="サンデー毎日19821">サンデー毎日、1982年1月3日、10日号44-47頁</ref><ref name="週刊文春20119">週刊文春、2011年9月8日号、94-97頁</ref>。しかし、閉鎖的な[[村社会]]が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の[[紡績]]工場に就職。その時期に[[宣教師]]の[[ウィリアム・メレル・ヴォーリズ]])に出会い[[牧師]]となって大阪の[[神学校]]通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の[[教会]]を立てた<ref name="サンデー毎日19821"/><ref name="週刊文春20119"/>。当地で信康は生まれる。[[近江兄弟社中学校・高等学校|近江兄弟社中学]]、[[滋賀県立八日市高等学校]]を経て、[[1966年]]に[[同志社大学]][[神学部]]入学。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱いに疑問を感じ「脱出」<ref name="週刊文春20119"/>、その後[[社会主義|社会主義運動]]に身を投じる中で、[[高石ともや]]に出会いギターを始める。
 
=== フォークシンガーとして ===
 
[[1968年]]、京都で行われた第3回[[フォークキャンプ]]に参加。同年9月、[[山谷 (東京都)|山谷]]に住む[[日雇い]]労働者を題材とした「[[山谷ブルース]]」で[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]よりレコードデビュー。翌年までに、「[[友よ (岡林信康の曲)|友よ]]」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「[[くそくらえ節]]」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が[[放送禁止]]となる。一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、[[勤労者音楽協議会]]との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的な[[プロテストソング]]に行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより[[1969年]]9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した<ref name="サンデー毎日19821"/>。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」<ref name="サンデー毎日19821"/>。