「カルロ3世 (ナポリ王)」の版間の差分

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'''カルロ3世'''(Carlo III, [[1345年]]、[[ナポリ]] - [[1386年]][[2月24日]]、[[ヴィシェグラード (ハンガリー)|ヴィシェグラード]])は、[[アンジュー=シチリア家|アンジュー家]]出身の[[ナポリ王国|ナポリ]]王(在位:[[1382年]] - 1386年)及び[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王('''カーロイ2世'''、II. Károly, 在位:[[1385年]] - [[1386年]])。
 
== 生涯 ==
ナポリ王[[ロベルト (ナポリ王)|ロベルト]]の末弟[[ジョヴァンニ・ディ・ドゥラッツォ|ドゥラッツォ公ジョヴァンニ]]の孫で、ナポリ王[[カルロ2世 (ナポリ王)|カルロ2世]]の曾孫に当たる。父グラヴィナ伯ルイージはジョヴァンニの次男であり、元来カルロはアンジュー家([[アンジュー=シチリア家]])のうちでも傍系の生まれである。
 
[[1369年]]に[[マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ]]と結婚したが、マルゲリータは同族の従妹であるだけでなく、ナポリ女王[[ジョヴァンナ1世・ダンジョ|ジョヴァンナ1世]](カルロの又従姉に当たる)の姪でもあった。マルゲリータの母[[マリア・ディ・カラブリア]]({{enlink|Maria of Calabria|Maria di Calabria|p=off|s=off}}, 1329年 - 1366年)がジョヴァンナの妹だったのである<ref name=T581>タックマン、p. 581、注91</ref>
 
同族の又従兄に当たるハンガリーおよび[[ポーランド王国|ポーランド]]の王[[ラヨシュ1世]]は、ナポリ王位を狙ってジョヴァンナ1世と敵対していた。カルロはラヨシュ1世の命を受け、[[1382年]]にジョヴァンナ1世を殺害し、自らがナポリ王カルロ3世となった<ref name=T581 />。ジョヴァンナ1世の養子[[ルイ1世・ダンジュー]]との抗争も発生したが、[[1384年]]にルイ1世が死去、抗争は収まった<ref name=T581 />
 
同年にラヨシュ1世が男子の継承者を持たずに死去した。ラヨシュ1世の長女[[マーリア (ハンガリー女王)|マーリア]]とその夫[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]([[神聖ローマ皇帝]][[カール4世 (神聖ローマ皇帝)|カール4世]]の次男、後の皇帝)が王位を継承することになっていたが、その即位に対してハンガリー国内では反対派も多く、[[1385年]]にカルロ3世は反対派から迎えられ、ハンガリー王カーロイ2世として即位した。しかし翌1386年、カルロ3世はマーリアの母親[[エリザベタ・コトロマニッチ]]によって暗殺され<ref name=T581 />、マーリアとジギスムントが王位に復帰した。
 
[[1378年]]に[[教会大分裂]]が発生しており、カルロ3世は[[教皇|ローマ教皇]][[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]からナポリ王位を承認されたが、[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン]]の[[対立教皇]][[クレメンス7世 (対立教皇)|クレメンス7世]]はルイ1世をナポリ王とした。この対立はカルロ3世の暗殺後も尾を引き、ルイ1世とカルロ3世それぞれの子・[[ルイ2世・ダンジュー]]と[[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ]]はアヴィニョン派、ローマ派に分かれて王位争奪戦を繰り広げていった。
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* [[ジョヴァンナ2世 (ナポリ女王)|ジョヴァンナ2世]](1373年 - 1435年) - ナポリ女王
* [[ラディズラーオ1世 (ナポリ王)|ラディズラーオ1世]](1377年 - 1414年) - ナポリ王
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* バーバラ・W・タックマン、徳永守儀 訳 『遠い鏡』 朝日出版社、2013年、p. 581、注91
 
== 関連項目 ==