「防共協定」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sube (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
100行目:
 
== 背景 ==
1933年に[[国際連盟]]を脱退した日本では、国際的孤立を防ぐために同様に国際連盟から脱退したドイツ・イタリアと接近するべきという主張が[[日本陸軍]]内で唱えられていた。また、[[ソビエト連邦]]は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では[[1935年]]7月に開催された[[コミンテルン#第7回[[コミンテルン]]世界大会と人民戦線|第7回コミンテルン世界大会]]で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していると考えられた。また駐独日本[[防衛駐在官|大使館付陸軍武官]][[大島浩]]少将は、かつて[[日露戦争]]の際に[[ビヨルケの密約]]によって[[ロシア帝国]]と[[ドイツ帝国]]の提携が成立しかけ、背後を気にする必要が無くなったロシアが兵を極東に差し向ける恐れがあった事例をひき、ユーラシアにおけるソビエト連邦とドイツの提携を断乎排除する必要があると唱えていた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=43-45}}。
 
ドイツ側の対日接近論者の筆頭であったのは、[[総統]][[アドルフ・ヒトラー]]の個人的信任を得ており、軍縮問題全権代表{{sfn|田嶋信雄|1987-03|pp=158}}の地位にあった[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]であった。リッベントロップはこの協定を、[[イギリス]]を牽制するためのものとして準備していた。[[国家社会主義ドイツ労働者党]]には、外務全国指導者の[[アルフレート・ローゼンベルク]]がいたが、日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えて躊躇していた{{sfn|三宅正樹|2000|pp=46}}。ヒトラーはリッベントロップを将来の外相であると評価していたが、外相となるには「手柄を挙げることが必要」と考えていた{{sfn|田嶋信雄|1987-03|pp=162}}。