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== 来歴 ==
=== 初期 ===
イタリアの[[カラブリア州]][[ロンゴブッコ]]出身。3人兄弟の次男。1898年、一家で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、ニューヨークの[[ロウアー・イースト・サイド]]に定住した。父ドメニコは雑貨屋で働いたが、は貧しった。1910年までに[[ら1ック先に[[ジョニー・トーン区|ブルックリン]]南部に移の酒場と売春宿があった<ref name="i">[http://mafiahistory.us/a031/f_calabrian.html Just how organized was Calabrian organized crime?] Thomas Hunt, 2015</ref>。ギャング集団[[ファイブ・ポインツ・ギャング]]の下部組織であるファイブ・ポインツ・ジュニアに加入し、トーリオと知り合っ。父ドメニコは雑貨屋で働いたが、家は貧しかった。1910年までに[[ブルックリン区|ブルックリン]]南部に移った<ref name="b">[http://www.onewal.com/a025/f_yale.html What do we know about Frankie Yale?] THE AMERICAN MAFIA, 2013</ref>。17歳でレスラーのブービー・ネルソンとチームを組んでビリヤード場を荒らしまわり、羊泥棒や武器の不法所持で幾度も逮捕された<ref name="a">[https://books.google.co.jp/books?id=oX8v48_MbswC&pg=PA47&lpg=PA47&dq=francesco+ioele+calabrians&source=bl&ots=7rbDEDJkpw&sig=Yvh-t9D4XHuUsj-iXFjVhIzGE7U&hl=ja&sa=X&ved=0CE0Q6AEwCGoVChMIo_Xf0tPnxwIVYjimCh2oPwzi#v=onepage&q=francesco%20ioele%20calabrians&f=false Capone: The Man and the Era] Laurence Bergreen(2013), P. 47</ref>。20歳までに12人を殺したとされるが、やがてブルックリンの港湾荷役の組合に進出し、商店から保護料を巻き上げた<ref name="b">[http://www.onewal.com/a025/f_yale.html What do we know about Frankie Yale?] THE AMERICAN MAFIA, 2013</ref>。1913年7月、武装強盗で逮捕されたが、店主が証言を取り下げ無罪となった<ref name="d"/>。1915年、同じファイブ・ポインツの[[ジョニー・トーリオ]]がシカゴに移った時[[ブルックリン区|ブルックリン]]のシマ縄張りを受け継いだ。同年、ヤミ違法賭博をやっていた喫茶店が摘発され、逮捕された<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/55283481/ 43 TAKEN IN RAID, Arrested in Coffee House, Alleged Gambling Joint] Brooklyn Daily Eagle, 1915.10.6</ref>。19171916年、[[コニーアイランド]]に酒場「ハーヴァード・イン」を開いた<ref name="a"/>。バーテンダー兼用心棒に、トーリオから紹介された[[アル・カポネ]]を雇った<ref name="d">[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Frankie%20Yale Frankie Yale] La Cosa Nostra Database</ref>。同年、24歳でマリア・デラピアと結婚。その後、ローザとイザベラの2人の娘が生まれた。
 
===密輸抗争===
禁酒法施行されると、酒の密輸ネットワークを立ち上げ、に乗り出した。デトロイトのパープルギャングから良質のカナダ産ウイスキーを仕入れてブルックリン一帯の闇酒場に卸売し、大儲けした<ref name="a">[http://www.referate10.com/referate/Englisch/19/The-Mafia-reon.php The Mafia]</ref>。取り扱う酒はトレ部下にウィリドマ・"ツナイフ"Old Granddad's・アルティエリ、[[アンソニー・カルファノ|アンソニー・"で評判オーギーピサノ"・カルファノ]]、フレンチー・カーリノ、ベンジャミン・パッゾら上がっ。密輸の縄張りを巡ってアイルランド系ギャングの[[ホワイト・ハンド]]<ref name="a">イースト・リバー沿いの港湾区を縄張りに持ち、ウィリアム・ビル・ロヴェットやリチャード・ロネガンがボスを務めた。</ref>をはじめ、多くの密輸ギャングと争った
 
1921年2月6日、マンハッタンのパークロウで殴り合いの喧嘩から撃ち合いに発展し、右肺を貫通する重傷を負った。相手側ギャングが頭部を撃たれ死亡した<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/55385083/ 1 Killed, 2 Injured, in Gang Gun Fight] Brooklyn Daily Eagle, 1921.2.7</ref>。
部下にウィリー・"ツーナイフ"・アルティエリ、[[アンソニー・カルファノ|アンソニー・"オーギーピサノ"・カルファノ]]、フレンチー・カーリノ、ベンジャミン・パッゾらがいた。
 
同年7月5日、南ブルックリンの密輸ギャング、アーネスト・メルキオーレを殺害した。逮捕されたが証拠なく放免された。同年7月15日、コニーアイランドのハーヴァード・インから車で移動中、並走する車から20発の銃弾を浴びた。イェールとカルファノは無傷で、弟アンジェロと手下1人が負傷した<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/60024427/ 2 MEN WOUNDED WHEN GANGSTERS ATTACK IN MOTOR] Brooklyn Daily Eagle, 1921.7.15</ref><ref name="g">[http://gangstersinc.ning.com/m/blogpost?id=6329524%3ABlogPost%3A68332 The Life and Death of Mafia Capo Anthony Carfano] Thom L. Jones, Gangsters Inc.</ref>。メルキオーレの兄弟シルヴィオの仕返しとされた。8日後、そのシルヴィオがリトルイタリーのカフェで氷の運搬を監督していたところに見知らぬ男が近づき口論になったが、その間に近づいた2人が銃殺した。イェールが疑われ拘留された(放免)<ref name="b"/><ref>[http://mob-who.blogspot.jp/2015/02/yale-frank-1893-1928.html Yale, Frank (1893-1928) 、The American Mafia]</ref>。
1920年代はじめ、ブルックリン臨海区の覇権を巡ってアイルランド系ギャングの[[ホワイト・ハンド]]と抗争し、多くの流血沙汰を起こした。酒の密輸で出遅れたホワイト・ハンドはイェールの暗殺を何度も試みた<ref>ホワイト・ハンドは従来の強請ビジネスに拘り、密輸ビジネスへの参戦が遅れた。取り扱うウィスキーはイェールのウィスキーに比べ低質で、不人気だった。[http://www.referate10.com/referate/Englisch/19/The-Mafia-reon.php The Mafia]</ref>。
 
1923年7月9日、パーティの帰りにイェールの自宅で待ち伏せ銃撃され、銃撃を受けた。運転手フランク・フォルテが死亡した。イェールは家族をフォルテ運転手に送らせ、自らはマッテオ・ロマノ部下1人と歩いて帰ったので無事だった。運転手はイェールと間違えられて犠牲になったと警察は結論づけた<ref name="b"/><ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/57098275/ FRANK YALE SAVED AGAIN IN GANG FEUD; FRIEND SHOT DEAD] Brooklyn Daily Eagle, 1923.7.9</ref>。
1920年1月、配下のベンジャミン・パッゾが荷役人夫からいつものように用心棒代の取り立てに行く途中、銃殺された。ホワイト・ハンドの仕業と疑ったイェールは、アジトのアドニス・クラブでホワイト・ハンドのボス、デニー・ミーハンの殺害作戦を練った。1920年4月、外部の殺し屋を使ってミーハンを殺害した。
 
1925年12月26日早朝、ブルックリン臨海区の社交クラブ「アドニス」でホワイトハンドのリチャード・”ペグ・レグ”・ロネガンら3人が銃殺された(アドニスクラブの虐殺)<ref>クリスマスパーティで賑わっていた最中に突然明かりが消え、数十発の銃声が鳴った。ホワイトハンド勢6人のうち、ボスのロネガンら3人が死亡し、1人負傷、2人は無傷で逃げた。他の客や従業員は無傷だった。[http://bklyn.newspapers.com/image/59882442 White Hand List is First Clue in 3 Gang Murders] Brooklyn Daily Eagle, P. 4 1925.12.27</ref>。現場にいて警察に尋問された9人(客、歌手、イタリア系オーナー等)の中にカポネがいたことから、イェールがカポネに頼んでライバルを抹殺したとの憶測が流れた(カポネは証拠不在で放免)<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/59884580/ Bail Denied Nine Held in Murder of "Peg Leg" and Aids] Brooklyn Daily Eagle, P. 2, 1925.12.29</ref>。
ミーハンの後継ボス、ワイルド・"ビル"・ロベットはイェールの密輸トラックを襲撃し、酒のない空のトラックをイェールのガレージにわざと停めて挑発した。怒ったイェールは、シカゴからカポネの配下を呼んでホワイト・ハンドのパーティを急襲させた。結果3人が死亡したが、イェールはアドニスクラブにいて鉄壁のアリバイがあった。ホワイト・ハンドは仕返しに、イェールのダンスパーティを襲撃した。無関係な一般人が巻き添えになったため、以後集会での複数暗殺から単一のターゲット狙いに切り替えた<ref name="a"/>。
 
1921年7月15日、コニーアイランドのナイトクラブから帰途中、イェールの乗った車が並走する車から銃撃され、弟アンジェロとロバート・ローレンスが負傷し、イェールとアンソニー・カルファノは無事だった<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/60024427/ 2 MEN WOUNDED WHEN GANGSTERS ATTACK IN MOTOR] Brooklyn Daily Eagle, 1921.7.15付</ref>。1920-1921年にかけての報復合戦により、犠牲者は両サイド合わせて15人にのぼった<ref name="a"/>。
 
[[1922年]]6月、[[ロウワー・マンハッタン]]で行われたギャング集会に出かけた夜、車を降りダンスホールへ向かう途中で背後から銃撃を受けた。銃弾が片肺を貫通する重傷だったが、一命を取りとめた。警察はロベットを疑った。1923年、ホワイト・ハンドはロベットが引退してリチャード・"ペグレグ"・ロナガンがボスになった。同年9月、ロベットは昔の仲間と酒を飲んで酔いつぶれたところを殺された<ref name="d"/>。
 
1923年7月9日、パーティの帰りにイェールの自宅で待ち伏せされ、銃撃を受けた。運転手フランク・フォルテが死亡した。イェールは家族をフォルテに送らせ、自らはマッテオ・ロマノと歩いて帰ったので、イェールと間違えられて犠牲になったと警察は結論づけた<ref name="b"/>。
 
[[1925年]]、ロナガンは、イェールの年末クリスマス・パーティを襲撃する計画を立てたが、ロナガンの部下が両者を天秤にかけてイェールに計画を密告した。アドニスクラブへ襲撃に訪れたホワイトハンドの面々をカポネたちと共に返り討ちにし、殺害した<ref name="d"/><ref name="a"/>。ホワイト・ハンド壊滅後はブルックリン臨海区の支配者となった。
 
=== VIP暗殺 ===
[[1920年]]5月にはトーリオと酒の密売で対立してい[[シカゴ]]の[[ジム・コロシモ]]を[[シカゴ]]の彼の事務所で暗殺した<ref name="b">[http://www.onewal.com/a025/f_yale.html What do we know about Frankie Yale?] THE AMERICAN MAFIA, 2013</ref><ref name="d"/>。警察はニューヨークで彼を殺人容疑で正式に逮捕したが、目撃者のウェイターが身の危険を感じて土壇場で記憶がないと言い、証拠不十分ですぐに釈放された。
 
[[1924年]][[11月10日]]にはトーリオと仲違いして争っていた[[ダイオン・オバニオン]]を暗殺した。言い伝えによれば、イェール一味はオバニオンの花屋を訪れ、3人が花屋に入り本人がいるかを確かめた後イェールを含む別の3人が花屋に入り、マイク・メルロ<ref>シカゴのシチリア系マフィアのリーダーの1人で、病死した。</ref>の葬式の花を買いに来たと言って手下の1人がオバニオンと握手しているすきに別の手下がピストルで射殺した<ref name="d"/>。コロシモ殺害時もイェールがシカゴにいたことから、警察はイェールの関与を疑いアリバイを確かめるため拘束したが、マイク・メルロの葬儀にきたと弁解し供述を終えてニューヨークに帰った<ref name="i"/>。この暗殺によって1万ドルと4カラットのダイヤの指輪を報酬として受け取ったという(イェールはオバニオン暗殺に関わっていないという説もある)。
 
=== 事業多角化 ===
酒の密輸の他、ギャングから取り立てる闇の上納金、組合や商店の強請が主どを収入源だったが、酒の密売で一気収入が増えると、事業を多角化した。ランドリー業、[[スピークイージー]](闇酒場)、氷(冷蔵庫のない時代の必需品)の卸売り、ダンスホール、葬儀屋、レストラン、タクシー会社、煙草会社など次々に立ち上げた<ref name="b"/>。安く作った氷や煙草を法外な高値で業者に売りつけ、ランドリー業やパン屋商売では組合を作り、って業者から強制的に会費を取った<ref name="g"/><ref name="h">[https://books.google.co.jp/books?id=2eCPAgAAQBAJ&pg=PA162&lpg=PA162 The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931] David Critchley, P. 162</ref><ref>Carl Sifakis, 2006, The Mafia Encyclopedia, P. 479</ref><ref>イタリヤ系パン屋の加入強制た。て組合に加入させ、加入の見返りは競争者が加入メンバーより安く売ることが許されない事だった<ref>1922年のパン屋証言では、加入を拒否したらすると店を攻撃され、そのまま拒否し続けるとイェールが会費を肩代わりすると折れてきたため渋々加入したという。Critchley, Notes to Capter 6, No.232, P. 291-292</ref>。
 
密輸で財を築くと、合法事業への投資を始めた。ランドリー業、[[スピークイージー]](闇酒場)、氷(冷蔵庫のない時代の必需品)の供給、ダンスホール、葬儀屋、レストラン、タクシー会社、タバコ会社まで幅広く手掛けた<ref name="b"/>。[[シチリア同盟]]([[:en:Unione Siciliane|en]])を非合法アルコール取引の隠れ蓑に使い、組織の本部長兼ニューヨーク支部長を務めた。
 
儲けた金の一部は慈善事業で庶民に還元した。1922年、クリスマスの前に12トンの石炭を用意し、貧民に無償で配った。配給場所に教会を利用し、また聖ロザリア教会に寄付した。1927年、ブルックリンのニューブロードウエイアリーナでボクシングのチャリテイマッチを組み、収益を教会に寄付した。同年、学校建設の発起式に参加した<ref name="b"/>。
 
1926年夏、扶養手当を払う条件でマリアと離婚し、翌年ルーシーと再婚した<ref name="b"/>。
 
=== シチリア・マフィアとの付き合い ===
20世紀初頭ブルックリンの魚市場を支配したジュゼッペ・バルサモ・"バティスタ"と友人になり、その後バルサモ利権を継いだ同じくシチリア系の[[ヴィンセント・マンガーノ]]とも付き合い、そがあった。マンガーノ配下のカラブリア系の部下を共有した。禁酒法初期、[[モレロ一家]]の[[ヴィンセント・テラノヴァ]]とも酒の密輸で提携した<ref>イェールのハーヴァードインの共同出資者名簿にテラノヴァの名前があった。[http://mafiahistory.us/a031/f_calabrian.html Just how organized was Calabrian organized crime? By Thomas Hunt]</ref>。1924年11月オバニオン暗殺に加担したと疑われたシカゴ旅行には、シチリアマフィアで、かつて[[サルヴァトーレ・ダキーラ]]の側近だったサヴェリオ・"サム"・ポラシアが随行していた<ref name="b"/>。
 
1920年代後半、ブルックリンに進出した[[ジョー・マッセリア]]と提携した<ref>イェールがマッセリアと結びついたのはもっと早く1922年頃とする説もある。What do we know about Frankie Yale? THE AMERICAN MAFIA, 2013</ref>。
 
=== カポネとの不和 ===
[[1927年]]、シチリア同盟のシカゴ支部を巡る酒の密売利権のいざこざからカポネと対立した。イェールがカポネのロングアイランドで荷揚げされる酒を強奪している<ref>イェールはカポネに酒を売っていたが、一説によれば、ブルックリンを通過するカポネのトラックを襲って積荷を強奪し、それを再びカポネに売りつけていたという。Carl Sifakis, 2006, The Mafia Encyclopedia, P. 479</ref>との噂を聞きつけたカポネはニューヨークに手下ジェームス・ディアマトを派遣して調べさせたところ、同年7月、ディアマトがブルックリンの路上で銃殺体となって発見された<ref name="b"/>。イェールに返り討ちにあったと信じらる<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=2eCPAgAAQBAJ&pg=PA162&lpg=PA162 The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931] David Critchley, P. 162</ref>。同年9月、カポネの招待でシカゴでボクシング試合を観戦したが、特に暴力沙汰は起こらなかった。シカゴの捜査当局はイェールがシカゴに来たので警察は再び警戒していたが、特に何も起こらず肩透しを食らった<ref name="b"/>。
 
=== 暗殺 ===
1928年7月1日朝416、アジトのサンライズクラブで飲んでいた時、家族に問題が起きている(または妻が病気になった)ことの危急を知らせる電話があったため、用心棒を付けずにカーキ色の新車[[リンカーン (自動車)|リンカーン]]に飛び乗り、自宅に急行した。ブルックリンのニューユトレヒト・アヴェニュー44丁目通りを走行中、後続尾行から急加速した黒光りセダンにのリアウィンドウを銃撃された。加速して逃げたが、途中で加わったとみられる別の車2台に追いつかれ、並走状態からショットガンリボルバー、[[トンプソン・サブマシンガン#M1928|トンプソンM1928サブマシンガン]]の一斉射撃を浴びた。車は道沿いの家にっ込みし、イェールは頭部に3発被弾して即死した<ref name="b"/><ref>[http://www.rarenewspapers.com/view/582122 "Gangster shot dead in daylight attack,"] New York Times, 1928.7.2, p. 1</ref><ref name="f">[http://bklyn.newspapers.com/image/59885762/  Killing of Frankie Uale Linked By Police To Feud With 'Scarface' Capone] Brooklyn Daily Eagle, P. 1 & P. 3, 1928.7.2付 暗殺報道記事</ref><ref>検死では、頭部左側へのショットガンによる顔面左側への銃撃兆弾2発と拳銃による左ほほへの拳銃弾1が死因とされた。Critchley, Notes to Capter 6, No.232, P. 291-292</ref><ref>自宅ではなく病院に向かっていたともいう。[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Frankie%20Yale Frankie Yale] La Cosa Nostra Database</ref>。サンライズクラブにいた部下によれば電話は彼の妻からで、「戻ってきて車に乗せて欲しい」という内容だったといい、部下の支度を待たずに一人で外に出ていった<ref name="ef">[http://americanmafiahistory.com/frankie-yale-forgotten-boss/ Frankie Yale – Forgotten Boss]</ref>。言い伝えで電話部下のジョー・ペライノが自分が運転して送ると言ったが、イェールは断って一人で自宅に向かをおびき出すトラップだったと広く信じられて<ref>[https://joebrunoonthemob.wordpress.com/tag/frankie-yale/ Joe Bruno on the Mob – Unione Siciliana (Italo-American National Union)]<name="g"/ref>。
 
赤信号で停車した時に4人乗りのブラックセダンに尾行されていることに気づき、急発進して逃げたが追いつかれ<ref>[https://joebrunoonthemob.wordpress.com/tag/frankie-yale/ Joe Bruno on the Mob – Unione Siciliana (Italo-American National Union)]</ref>、イェールの車は防弾仕様だったがサイドウィンドウに防弾処理が施されていなかった<ref name="b"/>、又は狙撃時サイドウィンドウを下ろしていた<ref name="hg">[http://gangstersinc.ning.com/m/blogpost?id=6329524%3ABlogPost%3A68332 The Life and Death of Mafia Capo Anthony Carfano] Thom L. Jones, Gangsters Inc.</ref>、とも言わ伝えられた。
 
現場に駆け付けた警官や刑事は、遺体を見てすぐイェールとわかった<ref>[http://bklyn.newspapers.com/image/59885762/ Killing of Frankie Uale Linked By Police To Feud With 'Scarface' Capone, p3] Brooklyn Daily Eagle, 1928.7.2付</ref>。警察は当初からカポネの関与を疑い、カポネがいたマイアミから手下3人が汽車で北に向かい、殺害数時間前にニューヨークにたと推論した<ref name="b"/>。殺害の実行犯は[[ジャック・マクガーン]]、ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ、フレッド・"キラー"・バーグとされた。イェール暗殺に使われはカポネと対立していマシンガンは後が、今、[[聖バレンタインデーの虐殺]](1928年)2月ま使われたマシンガンは少なく同種ののだ表面上は友好関係にあった新聞は伝えられた<ref name="cf"/>。カポネの殺し屋([http://www.nydailynews.com/archives/news/big-shot-burying-frankie-yale-1928-article-1.803659 BIG SHOT BURYING FRANKIE YALE, 1928[ジャック・マクガーン]] NEW YORK DAILY NEWS, May 1, 1998</ref>など)が俎上に上がったが、捜査は行き詰った
 
葬儀はギャングとしてはアメリカ建国以来最大の規模で行われ、1万5千人の参列者最後の別れを告げ集まった<ref name="b"/><ref name="c"/>。花を運ぶ車だけで28台も連なったとされ、地元のイタリア人居住区は葬儀の日に休業した。ブルックリンの全スピークイージーが各200ドルの献花代を寄付したと伝えられた<ref name="g">[http://gangstersinc.ning.com/m/blogpost?id=6329524%3ABlogPost%3A68332 The Life and Death of Mafia Capo Anthony Carfano] Thom L. Jones, Gangsters Inc.</ref>。葬儀はカルファノが仕切り、2人の女性が自分が正妻と主張して棺を取り合った<ref name="g"/>。その後、前妻のマリア・イェールは家族を養うため工場で1日10時間も働いた
 
=== 暗殺余波 ===
イェール死後、その縄張りを乗っ取ろうとギャング各派が状態となった。ダキーラが乗っ取りを仕掛けてイェール派残党を攻撃し、イェールの臨海区パートナーのカラブリア系ギャングはブルベイリクリン南部ジ拠点新興勢力[[ジョゼフ・プロファチ]]一派と抗争するなど混沌の様相を呈した。ダキーラはイェールの死から3か月後にマッセリアに暗殺された。結果として、マッセリア派の[[アル・ミネオ]]やイェール派残党のカルファノなどマッセリアになったカルファノのギャングが縄張りの大半を継いだ他、プロファチが混乱に乗じて縄張りの一部を奪取し、イェールの子分を多数取り込んだ(現[[コロンボ一家]])<ref name="b"/><ref name="h"/>。
 
== エピソード ==
*貧しい家庭出身だで育ったため、金持ちになった後イェール民に石炭や食料を配るなど慈善事業を積極的に行い、庶民に人気があった<ref name="b"/>。情に脆く、貧しい人を襲ったり、ただの強盗をすることを許さなかった(自分を慕っている商店に強盗が入った時にはイェールは温情として翌日その店のカウンターに現金を置いておいたこともあったという<ref>[http://americanmafiahistory.com/frankie-yale-forgotten-boss/ name="e"Frankie Yale – Forgotten Boss]</ref>)。
*イェールはトニー・ペロッタという男に手を焼いた。彼は賭博でイェールに借金をしていた。面識のあるカポネが取り立てに行くことを承知した。カポネはペロッタが手に負えなくなり射殺した。イェールは「難しい仕事」(殺人)をやったカポネを気に入った。
*貧しい家庭出身だったため、金持ちになった後は貧民に石炭や食料を配るなど慈善事業を積極的に行い、庶民に人気があった<ref name="b"/>。情に脆く、貧しい人を襲ったり、ただの強盗をすることを許さなかった(自分を慕っている商店に強盗が入った時には、イェールは温情として翌日その店のカウンターに現金を置いておいたこともあったという<ref name="e"/>)。
*「闇の王子」「ブルックリンのプリンス」と呼ばれた。
*学生風中央分けヘアスタイルと派手でどぎつい服装、ダイヤ入りベルトでギャングファッションを気取った<ref>Laurence Bergreen(2013), P. 48</ref>。
*短気で、イェールギャングの一員だった弟のアンジェロをよく叩いて説教していた<ref name=
"d"/>。
*無類の女好きで、結婚していたが浮気を重ねた。コニーアイランド近辺をうろつく美人を探しては逢引きし、逢引きの時はいつも敵の襲撃に備えて用心棒を周りに置いて敵を警戒した<ref>Laurence Bergreen(2013), P. 48</ref>。
*イェールに借金を返さず手を焼いていた男の元にカポネを派遣するとカポネはその男を殺したのでイェールは気に入ったという。問題が発生した場合は暴力で解決すること第一と優先し、マフィアのボスであっても家では良き夫であったトーリオとは正反対の影響を部下カポネに与えた。
*[[シチリア同盟]]([[:en:Unione Siciliane|en]])を非合法アルコール取引の隠れ蓑に使い、組織の本部長兼ニューヨーク支部長を務めたという。
*イェール暗殺事件は、[[トンプソン・サブマシンガン#M1928|トンプソンM1928サブマシンガン]]がニューヨークで最初に使われた事件として有名になったが、。[[聖バレンタインデーの虐殺]]で使われたマシンガンと同種のものだったとも伝えられた。検死によればではピストル弾とショットガンの跳弾で殺が死因とされた<ref name="h"/>。こと、目撃証言でマシンガンへの言及がなかったこと、攻撃に使われやガンマンが乗り捨てられた車にマシンガンがされつからなかったことなどから、マシンンガンが本当に使われなかっ可能性か疑わしいとの見方がある<ref name="g"/><ref>Critchley, P. 162, Notes to Capter 6, No.232, P. 291-292</ref>。
*1本の電話が死の引き金になったが、奇しくも側近のカルファノも31年後に同じ流儀で暗殺された<ref name="g"/>。
*1本の電話がの引き金になったが、イェールが稼いだ金は煙ように消え、彼の不動産鑑定額はわずか3000ドル側近だったと伝えらカルファノも31年後に同じ流儀で暗殺された<ref name="g"/>。
*警察署の常連で、彼の顔を知らぬ警官はいなかった。イェールが暗殺された時50-60人の警官・刑事が現場に駆けつけ、次から次へと遺体を見てはすぐにイェールと特定した<ref name="f"/>。
*死後、イェールが稼いだ金は煙のように消え、彼の不動産鑑定額はわずか3000ドルだったと伝えられた<ref name="g"/>。前妻のマリア・イェールは家族を養うため工場で1日10時間も働いた。
 
==脚注==
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<references />
 
== 外部リンク ==
* [http://www.onewal.com/a025/f_yale.html What do we know about Frankie Yale?] THE AMERICAN MAFIA記事
* [http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Frankie%20Yale Frankie Yale] La Cosa Nostra Database
* [http://www.nydailynews.com/archives/news/big-shot-burying-frankie-yale-1928-article-1.803659 BIG SHOT BURYING FRANKIE YALE, 1928] NEW YORK DAILY NEWS, May 1, 1998
* [http://americanmafiahistory.com/frankie-yale-forgotten-boss/ Frankie Yale – Forgotten Boss] American Mafia History