「ブリャンスク公国」の版間の差分

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ブリャンスクの建設年度は不明であるが、おそらく、10世紀末に[[キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]によって建設されたと考えられている。<!--ブリャンスク(当時デブリャンスク)は[[デスナ川]]右岸に位置し、都市の名称は、その周囲にあった、密林を意味する「дебр(debr)」に由来するという説がある。// 出典なし。[[ブリャンスク]]と異なるのでとりあえず伏せ-->ルーシの年代記([[レートピシ]])上の最初の言及は、『[[原初年代記]]・イパーチー写本』の1146年の項であり、[[チェルニゴフ公]]に仕える代官([[ナメストニク]])が配置された、という主旨の記述がなされている。1159年から1167年にかけては、隣接する[[フシチイシュ公国]]の一部となっていた。
 
1238年、モンゴルのルーシ侵攻によって[[フシチイシュ]]が破壊され、またフシチイシュ公[[ウラジーミル・スヴャトスラヴィチ (ノヴゴロド公)|ウラジーミル]]の血筋が途絶えた。その後、ブリャンスクを首都とし、[[チェルニゴフ]]、[[ノーウホロド=シーヴェルシクィイ|ノヴゴロド・セヴェルスキー]]、[[スタロドゥーブ]]、[[トルブチェフスク]](いずれもチェルニゴフ - セヴェルスキー圏の都市で、これらを首都とする公国が存在していた)を含む広大な地域を領するブリャンスク公国が成立した。ブリャンスク公国の初代ブリャンスク公はロマン[[:ru:Роман Михайлович Старый|(ru)]]であった。また、ブリャンスク公は慣例的に、[[チェルニゴフ公|チェルニゴフ大公]]の称号を冠していた。チェルニゴフ - セヴェルスキー圏の中では、[[オカ川]]上流の[[カラチェフ公国]]、ノヴォシリ公国、タルーサ公国、[[ポセミエ]]の[[クルスク公国]]、[[プチヴリ公国]]、[[ルィリスク公国]]のみがその支配権の外にあった。
 
13世紀末、ブリャンスク公国軍は[[ジョチ・ウルス]]軍、[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国|ガーリチ・ヴォルィーニ大公国]]軍と共に[[リトアニア大公国]]への遠征に参加した。14世紀はじめ、公国間の結婚によって、[[スモレンスク公]][[グレプ・ロスチスラヴィチ (スモレンスク公)|グレプ]]の子孫がブリャンスク公位を獲得した。1310年にジョチ・ウルスと結託して[[スヴャトスラフ・グレボヴィチ (ブリャンスク公)|スヴャトスラフ]]を破った[[ヴァシリー・アレクサンドロヴィチ (ブリャンスク公)|ヴァシリー]]は公位につき、さらにカラチェフ公国を占領した。