「道中奉行」の版間の差分

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== 概要 ==
道中奉行は、[[五街道]]である[[東海道]]・[[中山道]]・[[日光街道|日光道中]]・[[奥州街道|奥州道中]]・[[甲州街道|甲州道中]]および、五街道の付属する[[脇街道]]に「[[佐屋として主要街道|佐屋路]]・[[美濃路]]・[[日光例幣使街道|例幣使街道]]・[[壬生通り|壬生通]]・[[水戸佐倉道]]・[[本坂通]]などのほか、[[日光法成道]]<small>(原典ママ)</small>」を支配下にした<ref>豊田・児玉(1974)、107頁。</ref>を管下とした<ref>内藤(1982)、33(1970)105頁。</ref>。[[宿場]]駅の取締りや[[公事]]訴訟、[[助郷]]の監督、道路、[[橋梁]]、[[渡船]]、[[並木道|並木]]、[[一里塚]]の整備など道中関係全てを担当した{{sfn|浅井建爾|2001|p=100}}<ref>脇往還または脇街道、脇道などで、伊勢路・中国路・佐渡路は勘定奉行の管下にあった(内藤(1982)、33頁)。</ref>。
 
初見は『吏徴別録』の[[寛永]]4年([[1632年]])12月にある[[水野守信]]ら4名の任命の記事であるが、一般的には[[万治]]2年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1659年]][[9月5日]])に[[大目付]][[高木守久]]が兼任で就任したのにはじまるとされる。大目付兼帯1名として始まったが、[[元禄]]11年([[1698年]])に[[勘定奉行]][[松平重良]]が道中奉行加役となって以後、大目付と勘定奉行から1名ずつ兼帯する2人制となった。[[弘化]]2年([[1845年]])より大目付のみの兼帯
 
[[万治]]2年([[1659年]])、[[江戸幕府|幕府]]に[[道中奉行]]が設けられ、五街道に付属していた街道は「[[佐屋路]]・[[美濃路]]・[[日光例幣使街道|例幣使街道]]・[[壬生通]]・[[水戸佐倉道]]・[[本坂通]]などのほか[[日光御成道|日光法成道]]」があった<ref>豊田・児玉(1970)107頁。</ref>。佐屋路、[[日光例幣使街道|例幣使街道]]、[[本坂通]]は、[[明和]]元年([[1764年]])に道中奉行の管轄となった<ref>国際交通文化協会(1938),40頁</ref>。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])から[[享保]]9年([[1724年]])までは[[与力]]2騎、[[同心]]10人が配属され、配下に[[勘定組頭]]の兼職である道中方が置かれていた。
 
[[役料]]は享保8年([[1723年]])から年に3000石、[[文化 (元号)|文化]]2年([[1805年]])以後は年間金250両。
 
[[弘化]]2年([[1845年]])より大目付のみの兼帯。
 
== 脚注 ==
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* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}} 
* 内藤二郎. 「< 論説> 奉幣使をめぐりて」.『駒大経営研究』13.3、駒澤大学 、1982年: 33-59頁.
 
* 国際交通文化協会『日本交通史料集成』第3輯 (五駅便覧)、国際交通文化協会、1938年。
* 豊田武・児玉幸多編、『体系日本史叢書 : 交通史』24、山川出版社、1974年:488頁。
 
== 関連項目 ==
*[[街道]]
*[[五街道]]
*[[脇往還]]
*[[道中方秘書]]
*[[旅がらす事件帖]] - [[小林旭]]演じる旗本・神保直次郎が、老中主座・[[阿部正弘|阿部伊勢守正弘]]の命により、「'''闇の道中奉行'''」として股旅姿の渡世人に身をやつして諸国を廻るテレビ時代劇。1980年 - 1981年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]・[[国際放映]]制作。
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{{japanese-history-stub}}
{{History of transportation-stub}}
[[Category:街道]]