「ドイツ銀行」の版間の差分

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[[1870年]][[1月22日]]、[[ドイツ帝国|統一ドイツ]]の資本の海外進出を促進するため、外国貿易に特化した銀行として[[ベルリン]]で創業した。創業者は銀行家アデルベルト・デルブルック (Adelbert Delbruck) と政治家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) で、重役には銀行家ヘルマン・ヴァリッヒらのほか、ドイツ銀行設立を指導した{{仮リンク|ゲオルク・フォン・ジーメンス|en|Georg von Siemens|de|Georg von Siemens}}が就いた。ゲオルクは[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]の従弟であり、やがては頭取となった。ゲオルクと設立に協力した銀行のうち、ドイツ語版のドイツ銀行記事にないものは、{{仮リンク|シャフハウゼン銀行|en|A. Schaaffhausen'scher Bank Association|de|A. Schaaffhausen’scher Bankverein}}と[[:de:Schlesischer Bankverein|シュレジエン銀行]]である。
 
創業2年後の[[1872年]](明治5年)に[[東アジア]]取引の増大を目指して初の海外支店を日本の[[横浜市|横浜]]と清の[[上海市|上海]]に開設た。このときの人材は[[普仏戦争]]で[[BNPパリバ|パリ割引銀行]]中国支店から解雇された職員を用いた。翌年に[[ロンドン]]支店も開設した。しかし東アジア取引は思ったほどうまくゆかず経営を圧迫し、横浜支店も上海支店も3年で閉鎖し、以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンク(銀証非分離)への道を選んだ<ref name=akagawa>赤川元章 [http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=12899 19世紀末のドイツ銀行業と東アジア] 三田商学研究49巻5号 2006年12月</ref>
 
=== ドイツ最大の銀行 ===
[[1876年]]にベルリナー・バンク=フェアアインとドイチュ・ウニオン=バンクを合併しドイツ最大の銀行となった。翌年5月には[[AEG]] の新株700万マルクの引受幹事として200万マルクを投じて、ゲオルクも合計で10年ほど監査役などの肩書きでAEG の経営に携わった。1896年、[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]]が最初に発行した社債1千万マルクを幹事として引受け販売した。この年にゲオルクはAEG の監査役を辞めてジーメンス・ハルスケの方へ鞍替えした。
また[[アメリカ合衆国]]の[[ノーザン・パシフィック鉄道]](1883年)、[[ラテンアメリカ]]の[[:de:Deutsche Ueberseeische Bank|ドイツ海外銀行]](1886年)、[[オスマン帝国]]の[[バグダード鉄道]](1888年)、[[ヒジャーズ鉄道]](1900年)などに出資し、鉄鋼・兵器コンツェルンの[[クルップ]]への融資や化学大手の[[バイエル (企業)|バイエル]]のベルリン株式市場への上場を手がけ多くの企業を傘下に置いた。
 
[[1889年]]、{{仮リンク|ディスコント・ゲゼルシャフト|en|Disconto-Gesellschaft|de|Disconto-Gesellschaft}}に従い[[香港上海銀行#日本政府への協力|独亜銀行]]を設立した。ここにはドイツ銀行の他に[[ロスチャイルド]]、[[ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー|ブライヒレーダー]]、ダルムシュタット銀行(現[[バークレイズ]])などが参加した。そして6年後に[[ドレスデン銀行]]とシャフハウゼン銀行が続いた。独亜銀行の監査役会は、同行のベルリン支店から多めに代表を選び、経営実権を握る事業委員会へ送り出した。<ref name=akagawa />
 
元来ディスコント・ゲゼルシャフトは[[プロイセン邦有鉄道#私鉄の買収|ダーフィト・ハンゼマン]]が1849年に興したベルリン信用組合である。ハンゼマンは元々アーヘンの毛皮商人であった。1837年に{{仮リンク|ライン鉄道会社|en|Rhenish Railway Company|de|Rheinische Eisenbahn-Gesellschaft}}の設立をリードした。[[1848年革命#ドイツ三月革命|三月革命]]のとき蔵相に就任していた。[[産業革命]]による人間疎外のあまり1849年2月9日には勅令で[[ツンフト]]が復活するほどであったが、ベルリン信用組合はそんな戦いに臨む職人らの無限責任[[信用組合]]であった。この革命でベルギーでは[[ベルギー国立銀行|ジョナサン・ラファエル・ビショフサイム]]が[[ブリュッセル]]の信用組合''Union du Crédit'' を創設しており、これをモデルにベルリン信用組合ができた。[[プロイセン王国|政府]]はベルリン信用組合を社団法人とみなし、免許権を用いて組合の存続を妨害した。そこでハンゼマンは1851年に定款を変更して合資会社ディスコント・ゲゼルシャフトを誕生させた。するとプロイセン銀行が会社の裏書する手形について購入や割引を拒否した。会社総会は1855-1856年に事業範囲を急拡大し、鉄道・鉱工会社の発起に関わる大銀行となった。このようなディスコントは1901年にフランクフルトの''[[ロスチャイルド|M. A. von Rothschild & Söhne]]'' を継承した。
 
[[1904年]]、''Deutsche Petroleum-Aktiengesellschaft ([[:de:Europäische Petroleum-Union|DPAG]])'' をベルリンに設立。これはやがて[[BP (企業)|ブリティッシュ・ペトロリアム]]となる。
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[[1917年]]、ドイツ銀行元重役が[[ウーファ (映画会社)|ウーファ]]という映画会社の設立を資金面で主導した。1925年、パルファメト協定。
 
[[1929年]]、ドイツ銀行はシャフハウゼン銀行やシュレジエン銀行だけでなく、{{仮リンク|ディスコント・ゲゼルシャフト|en|Disconto-Gesellschaft|de|Disconto-Gesellschaft}}も合併した。これは過去から[[ドイツ帝国#経済|ディスコント・アソシエーション]]と呼ばれてきたコネクションであった。
 
元来ディスコント・ゲゼルシャフトは[[プロイセン邦有鉄道#私鉄の買収|ダーフィト・ハンゼマン]]が1849年に興したベルリン信用組合である。ハンゼマンは元々アーヘンの毛皮商人であった。1837年に{{仮リンク|ライン鉄道会社|en|Rhenish Railway Company|de|Rheinische Eisenbahn-Gesellschaft}}の設立をリードした。[[1848年革命#ドイツ三月革命|三月革命]]のとき蔵相に就任していた。[[産業革命]]による人間疎外のあまり1849年2月9日には勅令で[[ツンフト]]が復活するほどであったが、ベルリン信用組合はそんな戦いに臨む職人らの無限責任[[信用組合]]であった。この革命でベルギーでは[[ベルギー国立銀行|ジョナサン・ラファエル・ビショフサイム]]が[[ブリュッセル]]の信用組合''Union du Crédit'' を創設しており、これをモデルにベルリン信用組合ができた。[[プロイセン王国|政府]]はベルリン信用組合を社団法人とみなし、免許権を用いて組合の存続を妨害した。そこでハンゼマンは1851年に定款を変更して合資会社ディスコント・ゲゼルシャフトを誕生させた。するとプロイセン銀行が会社の裏書する手形について購入や割引を拒否した。会社総会は1855-1856年に事業範囲を急拡大し、鉄道・鉱工会社の発起に関わる大銀行となった。このようなディスコントは1901年にフランクフルトの''[[ロスチャイルド|M. A. von Rothschild & Söhne]]'' を継承した。
 
===「アーリア化」===