「第二次ポエニ戦争」の版間の差分

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== イタリア侵攻 ==
==== アルプス越え ====
ローマを屈服させるにはイタリア本土を直接攻撃するしかない。しかし、[[制海権]]がローマに握られている以上、海上からの侵攻は困難である。さらにローマはカルタゴの侵入が予想されるイタリア西部、南部に兵力を配置していた。ここでハンニバルは[[アルプス山脈]]を越え、ローマの防備の薄い北方から侵攻するという前代未聞の発想に至る([[ハンニバルのアルプス越え]])。
 
[[紀元前218年]]5月、弟の[[ハスドルバル#ハスドルバル・バルカ|ハスドルバル]]にヒスパニアの統治を任せたハンニバルは、カルタゴ・ノヴァ(現[[カルタヘナ_(スペイン)|カルタヘナ]])を進発し、海岸線沿いに南フランスを進んだ。[[ローヌ渡河戦|ローヌ川での戦い]]を経て9月、ハンニバルは約40,000名の兵士と30頭の[[戦象]]を率いてアルプス越えに挑んだ。なお、この際にカルタゴ軍が辿ったルートの詳細は不明であり、現在でも諸説分かれている。9月のアルプスはすでに冬季といってよく、ケルト人の部族との戦いもあり、大軍での越山は困難を極めた。イタリアに到着した際のカルタゴ軍の兵力は26,000名(歩兵20,000名、騎兵6,000名)、戦象はわずか3頭となっていた。
 
==== ハンニバル進撃 ====
カルタゴ軍がイタリア北部に現れたという知らせはローマに大きな衝撃を与えた。[[元老院 (ローマ)|元老院]]は執政官[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ]]に2個軍団を与え、急遽迎撃に派遣した。11月、ティキヌス川付近で両軍の指揮官が直接指揮する騎兵同士が会敵し、そのまま戦闘になった。精強な[[ヌミディア]]騎兵を中心とするカルタゴ軍がローマ騎兵を一蹴し、指揮官スキピオも負傷した。([[ティキヌスの戦い]])
 
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3度の敗北を喫したローマはクィントゥス・ファビウス・マクシムスを[[独裁官]]に選出し、彼に一切の権限を委ねた。ファビウスはハンニバルとの正面対決を避け、カルタゴ軍の消耗を待つ[[持久戦]]をとった。しかし、ハンニバルによってイタリア全土が略奪にさらされると、ファビウスの迂遠な戦略は批判を招き、「クンクタトル([[ラテン語]]でぐず、のろまの意)」というあだ名がつけられた。ファビウスの任期が切れると、元老院は決戦を望む声を反映し、[[ルキウス・アエミリウス・パウルス]]と[[ガイウス・テレンティウス・ウァロ]]を執政官に選出した。両名は80,000名の軍団を率いてハンニバルの迎撃に向かった。
 
==== カンナエ ====
[[紀元前216年]][[8月2日]]、[[アプリア]]地方の[[カンナエ]]近郊で両軍は対峙、当日の指揮官であるウァロが決断し、ローマ軍約80,000(うち10,000名が陣地に残留)はカルタゴ軍約50,000に決戦を挑んだ。戦闘序盤でカルタゴ軍左翼の騎兵はローマ軍右翼の騎兵を撃退。続いてローマ軍後方を迂回して反対側の翼へ回り込み、右翼の騎兵とローマ騎兵を挟撃した。ローマ軍中央はカルタゴ軍中央に猛攻撃を加えていたが、戦闘前にハンニバルが弓なりに歩兵戦列を配置していたため、徐々に押し込まれながらも持ちこたえていた。カルタゴ軍歩兵戦列の両翼に配された古参のアフリカ人傭兵は互角の戦いを繰り広げており、ローマ軍中央はV字になりつつあった。そこへローマ騎兵を撃退したカルタゴ騎兵が、歩兵戦列の後方に回り込み、完全な包囲態勢が完成した。恐慌状態に陥ったローマ軍は密集し、中央で圧死が発生、さらに外周から徐々に殺戮され、突破口を開くこともできずに殲滅された。ローマ軍の損害は、死傷60,000名、捕虜10,000名という破滅的なものであり、執政官パウルスと約80名の元老院議員も戦死した。この戦いは、完全包囲を成功させた最初の戦例であり、さらにまた自軍に倍する敵軍を包囲殲滅した稀有な戦例である。ハンニバルの傑出した軍才を証明するものといえるだろう([[カンナエの戦い]])。
 
==== 戦線膠着 ====
[[ファイル:N26FabiusCunctator.jpg|150px|thumb|right|クィントゥス・ファビウス・マクシムス像]]
この勝利によってハンニバルの名声は頂点に達した。南イタリアの[[カプア]]、[[シチリア島]]の[[シラクサ]]は、カルタゴに味方することを宣言、以降3年に亘ってローマと戦いを繰り広げることとなる。しかしそれ以外のローマと同盟都市との結束は崩れず、この最優先戦略目的に関する誤算がハンニバルに重くのしかかっていくことになる。[[紀元前217年]]にハンニバルと同盟を結んでいた[[マケドニア王国|マケドニア]]王[[ピリッポス5世]]も行動を開始し、[[第一次マケドニア戦争]]が勃発した。しかし、マケドニア艦隊はイタリア半島に到達することができず、直接ハンニバルを支援することはできなかった。敵地での補給に苦しむカルタゴ軍は、首都ローマを攻めずに肥沃でカルタゴ本国とも連絡をつけやすい半島南部へ主攻を切り替えた。