「牧野の戦い」の版間の差分

編集の要約なし
(+脚注)
編集の要約なし
|date=[[紀元前1027年]]又は[[紀元前1046年]]<ref>[[夏商周年表プロジェクト]]の結果から</ref>(周武王11年)
|place=[[牧野区|牧野]]
|result=[[周]]の決定的勝利
|combatant1=[[殷]](商)
|combatant2=周
数年後、発はまたしても軍を発して殷を攻めた。この際には様々な瑞兆があったといわれている。周軍は[[孟津県|孟津]]という港から[[黄河]]を渡ろうとしたが、雷雨と暴風に邪魔されて河を渡ることが出来なかった。発は怒り、[[河伯|黄河の神]]に向かって「[[天命]]は既に下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか」と大喝すると嵐はやみ、周軍は河を渡ることができた。また、河を渡る船の中に白魚が飛び込んできた。白は殷のシンボルカラーである。
 
周軍と殷軍は殷の首都・[[朝歌]]に近い[[牧野区|牧野]]で決戦することになった。『史記』周[[本紀]]によれば殷の準備は万全で70万という大軍を動員した一方で周軍は諸侯の軍を加えても40万であった。しかも決戦またしても雷雨がとまらなかっに見舞われ周軍の諸将は敗戦を恐れたが、発は殷の[[天乙]] (湯) が[[夏 (三代)|夏]]の[[桀]]を破って王朝をひらいた{{仮リンク|鳴条の戦い|zh|鸣条之战}}においても雷雨がとまらなかったといわれていることから、むしろこれは周が勝って王朝をひらくという前触れであると言って全軍を勇気づけた。
 
殷軍は数の上では遥かに優勢であったが、その数は戦場にて不吉を祓うための[[神官]]を含んでいるうえに、殷に服属している小諸国の軍や、奴隷兵から成り立っていた。彼らも暴虐な帝辛の支配に嫌気がさしていたので、戦い呂尚途中もと先進化された周軍の攻勢をみるや矛先を変えて襲い掛かり、殷軍は壊滅した。
 
=== 事後 ===
匿名利用者