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[[File:Echigo Shibata Murakami Map in Tenpo era.jpg|thumb|right|200px|『天保国絵図[[越後国]]新発田[[村上藩|村上]]』[[天保]]9(1838)9([[1838年]])。[https://www.digital.archives.go.jp/ 国立公文書館デジタルアーカイブ]より。]]
'''新発田藩'''(しばたはん)は、[[越後国]][[蒲原郡]]新発田(現在の[[新潟県]][[新発田市]])を中心に現在の[[下越地方]]の一部などを治めた[[藩]]。藩庁は[[新発田城]]。藩主は[[溝口氏]]。[[家格]]は[[外様大名]]で、[[石高]] 6万石(のち 5万石→10 → 10万石と推移)。
 
 
__TOC__{{-}}
== 概要 ==
[[1598年]]、[[豊臣秀吉]]の命を受けてそれまで越後一国を領していた[[上杉景勝]]が会津に移封された後、越後は[[高田藩|福島]]30万石に[[堀秀治]]、坂戸2万石に[[堀直寄]]、村上(本庄)9万石の[[村上義明]]、そして新発田の[[溝口秀勝]]といった具合に配置された。
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* 十代  [[溝口直諒]]
* 十一代 [[溝口直溥]]
* 十二代 [[溝口直正]] - [[1884年]]([[明治]]17年)、[[華族令]]により[[伯爵]]。
 
== 主な重臣の家系 ==
* 溝口半左衛門(半兵衛)
* 溝口伊織
* 溝口内匠
* 堀丈大夫(内蔵丞)
* 堀主計
* 速水九郎右衛門(八弥)
* 窪田平兵衛
* 里村官治
* 里村縫殿
* 坂井数馬
* 仙石武右衛門
* 仙石九郎兵衛
* 脇本儀左衛門
* 宮北郷左衛門
* 服部市郎左衛門
* 佐治藤右衛門
 
=== 家臣団の形成 ===
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以上に挙げられた氏は物頭(武頭)以上の家系で、家老、城代、用人、組頭、奉行などの役職も勤めた。
 
* '''参考文献''' 『新発田藩史料 第二巻 藩臣編』 国書刊行会 [[1988年]]
 
== 新発田藩の戊辰戦争 ==
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[[鳥羽・伏見の戦い]]の後、[[徳川慶喜|慶喜]]追討令が出、久我中納言から新発田藩には京都の警護のために兵を出すようお達しがくる。上京兵力は、江戸から物頭久米三左衛門隊二百名、新発田から物頭佐治藤右衛門隊二百名の計四百名。総隊長は江戸詰家老速水八弥。
 
1月10日、京都で発表された[[朝敵]]の区分は一等徳川慶喜、二等[[松平容保]]([[会津藩]])、[[松平定敬]]([[桑名藩]])、となっていた。それならばと会津は2月1日、酒屋村の陣屋([[新潟市]]酒屋町)に再び越後諸藩を集めて「酒屋会談」を行なう。中央情勢との関連でこの会談を危険と感じて、[[高田藩]]など欠席した藩も多かった。しかし、新発田藩は、自らの情報提供で第一回が開催されたのだから、二回目を欠席するのは自ら反会津を宣言するようなもの、ということで出席する。代表に七里敬吉郎、井東八之丞が送り込まれる。会談は無事終わるが、宴の最中、[[新潟奉行|新潟奉行所]]から、新発田藩の銃兵隊数百人が京都へ向かったという知らせが入る。七里、井東は知らぬ存ぜぬを通すが、藩へ帰って調査し返答することを求められる。その後七里がどういった弁明をしたかは不明だが、[[会津藩]]は「'''疑念晴れ候'''」とした。
 
==== 勅書に対し請書提出 ====
2月15日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使の[[高倉永サチ|高倉永祜]]、同副総督兼鎮撫使の[[四条隆平]]から[[勅書]]が届く。この勅書は藩から藩へとリレーされてきたもので、新発田は[[村松藩]]から受け取り、[[三日市藩]]へ渡すものであった。各々の藩の考えを伺いたいという趣旨で、副書に、積雪で遅れるので先に書面で通知した、承知したなら請書(うけしょ)を出すように、とあった。翌16日、勅書を三日市に送り、溝口半兵衛は御用人宮北郷左衛門とともに[[北陸道]]を南下した。請書の文言は「恐れながらなお以て忠誠に励み、王事に勤労奉るの外、他念ござなく候」というものであった。[[四条隆平]]の『北征記事』によると、3月9日に高岡で請書を渡したようである。越後各藩では一番早く、次いで糸魚川12日、高田14日、長岡、三根山16日だった。新発田は京都にいる窪田平兵衛を通じて鎮撫使の状況を知らされていたので素早い対応ができた。対照的に[[越後長岡藩|長岡藩]]は、[[河井継之助]]が不在であり、京都筋の情報も持っていなかったことから、寝耳に水で薩長勢が来ると思い込んで大騒ぎしたという。
 
==== 藩主の江戸からの帰国 ====
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=== 奥羽越列藩同盟に加盟 ===
5月15日、[[米沢藩]]中老[[若林作兵衛]]、仙台藩玉虫左大夫、[[鈴木直記]]が新発田に来訪。溝口伊織、溝口半左衛門が応対。もし同盟に入らないのであれば、事に及ばざるを得ない、という強い圧力に、翌日まで回答を待ってもらうことにした。しかし、ここへきては妙案もなく、翌16日、老候静山の了承を得て、回答書を提出し、盟約書に署名した。17日に藩内に[[奥羽越列藩同盟]]加盟が布告されたが、藩内には不服が多く喧々轟々だった。18日、密使井上栄之丞が新発田を発つ。仙台から海路で30日江戸へ着いた。[[江戸]]には京都警護を終え、東征軍として江戸に駐屯していた家老速水八弥がいた。井上は列藩同盟加盟を速水に報告。これを受けて速水は6月1日、大総督府参謀へ事情を上申した。米沢、仙台、庄内の圧力に屈し、やむをえず同盟に加盟したが、勤王の志は変わらぬこと。これに対し、総督府からは、さらに報告があるまで江戸の新発田兵は謹慎するには及ばないという返事が来る。
 
==== 領民との連携 ====
同盟に加盟後、新潟で開かれる列藩の会議に新発田も代表の重臣と、守備の兵力を出すことになる。5月19日、新発田城で藩兵の出陣式が行なわれる。組頭堀主計を士大将とし、物頭里村縫殿、服部吉左衛門の率いる200名余、砲 4門が出陣した。この前日に一部が先発し、このうち 2小隊は[[庄屋]]の子弟で組織された農兵隊だった。堀隊は21日に新潟着。米沢藩総督[[色部久長|色部長門]]が来るまでは会議も開かれない。前線に1兵でも欲しい会津、米沢から強烈な出兵督促がくる。堀は新潟の警備のために来たのだからと断るが、のらりくらり言い抜けることはできず、出兵の約束をさせられてしまう。27日新潟を発ち、沼垂で 1泊。翌日[[加茂市|加茂]]へ出発しようとしたところ、領民が道をふさぎ、橋を落とし、川にも柵がしてあった。領民が[[官軍]]とは戦わないでくれと懇願。堀隊はこのまま沼垂へ留まる。
*「'''是れを領民蜂起の第一となす。けだし[[藩士]]ひそかに、領民を使嗾(しそう、そそのかす)せしならん'''」『新発田藩戊辰始末』
 
堀主計隊が出兵督促を受けていた頃、新発田城にも出兵督促が来ていた。6月1日、物頭脇本庫之助、高田忠兵衛、高山安兵衛の部隊が加茂へ出発した。普通に行けば2日の道程だが、4日になっても新津にも到着しない。米沢は怒り、加茂の定宿の明田川某に尋ねると、新潟、沼垂に警備にでもいったのだろうかととぼける。6月6日、[[新津市|新津]]に到着。ここで竹槍を持った農民の大群に囲まれ進めなくなる。
* '''我が領民四方より馳せ集まりその数、数百千人。我が進軍を阻塞し、歎願して曰く、進軍するなかれ、[[官軍]]と戦うなかれ(是れを領民蜂起の第二とす)'''」『新発田藩戊辰始末』
 
6月7日、新発田城下で大変なことが起きたという噂が入ってくる。この噂は根も葉もないことではなく、藩主人質未遂事件に関することのようである。脇本、高田らは藩に無断で新発田へ帰る。しかし城下へは入れてもらえず、役職は免職、知行は50石ずつ減らされた。同盟諸藩の手前、厳重に処罰せざるを得なかった。後任に、加藤友左衛門、林文左衛門が任命され、加茂へ送るのかと思えば、沼垂へ進発させている。
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==== 藩主人質未遂事件 ====
6月3日、米沢藩主[[上杉斉憲]]が自ら1000人余の兵を率い米沢を出発、6日に越後下関([[関川村]])に到着。これに先立ち5日、斉憲の使者として、軍監[[大滝新蔵]]が新発田へ急行。直正に下関に来てもらい軍議を開きたいと申し入れてきた。1000人余の米沢兵のいるところへ出て来いということは、人質となれということである。6月7日、直正、溝口内匠、少数の藩士が城を出た。しばらく進むと、竹槍を持った領民たちが道を塞いでいた。城下の町民や、五十公野、浜通、新発田、岡方などから集まった農民だった。領内島潟村大庄屋小川五兵衛ら村役人たちが群衆を指揮している。さらに群衆の中には、変装した新発田藩士も混じっていた。直正の籠は清水谷の別邸に入り、9日まで滞在し、帰城した。
* '''領民、その邸を囲みて警護せり(是れを領民蜂起の第三とす。けだし三回の蜂起、皆重臣の密計ならん。然れども、今その由る所を詳かにする能わず)'''」『新発田藩戊辰始末』
 
新発田藩は、諸藩への申し開きのために領民を扇動した首謀者を捕えて見せねばならなかった。首謀者として、折笠泰助、阿部求之丞を縄にかけ、下関へ護送していった。米沢の取調べは峻烈だった。しかし、2人は新発田へ送り返されてくる。真犯人が小物ではないことを見抜いていたからか。藩では彼らを投獄したが、西軍が上陸すると釈放している。
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==== 新発田城包囲 ====
6月9日、新発田の郊外、五十公野、佐々木、真野原、島潟堤に米沢ら同盟諸藩の軍隊が続々集結した。この包囲網の外側の、島見、松ヶ崎にも後詰の軍が控えた。米沢の大滝新蔵の軍200人余、ほか合計600人を超える兵力だった。新発田藩は、江戸に400人余、沼垂に400人余派遣しており、農兵がいたとしても数百人程度。前日8日に、五十公野で同盟諸藩の会議があり、家老の溝口内匠、山崎重三郎が呼びつけられていた。出兵させるか、藩主一族は城を立ち退くか、9日夜12時までにどちらかに応じなければ、総攻撃に移る、と最後通告を突きつけられた。
* '''新発田を守る隊長は佐治孫兵衛様でございましたが『もし敵を防ぎきれない時は鐘を鳴らすから、その時は新発田が負けそうだと思って、即刻立ち退け』という御布令がまわされていしたから、どうぞ孫兵衛様の鐘が鳴るなら、昼に鳴るようにと、祈っていました。家内中毎日びくびくして、今日も鳴らなかった、などといっておりました。ところが大雨の降った晩、恐れておりました孫兵衛様の鐘が、突然鳴りました。ああ、とうとう鳴った。このどしゃ降りの最中にと、泣き顔で道具の片付けを始め、めぼしいものを背負って、雨の中を近くの農家に逃れました'''」 『新発田市史』所収「郷土余話」諸橋たま子さんの談話
 
約束の12時を過ぎても、新発田藩からの返答はない。大滝新蔵は腹心の桜孫左衛門を呼び、自分は単身新発田城に乗り込むから、一刻過ぎても戻ってこなかったら総攻撃に移るようにと伝える。大滝が城へ向かおうとしたとき、馬が駆けて来て、溝口内匠らが来て、直ちに出兵する、領民扇動の首謀者 2名(前出の折笠、阿部)を引き渡すと回答した。そして何事もなかったように10日の朝を迎えた。
 
==== 東軍として出兵 ====
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=== 西軍上陸 ===
閏4月23日、溝口内匠が江戸を出発し、途中西軍に怪しまれ捕えられ[[高田藩|高田]]へ護送され、同じ頃、山崎重三郎も西軍に捕まっていた。京都の窪田平兵衛は寺田惣次郎を派遣し、内匠と山崎は5月20日に釈放されていたが、今度は寺田が高田で捕まっていた。西軍は新発田を完全には信用していなかった。窪田は今度は、貢士相馬作右衛門を高田へ派遣する。貢士は各藩が新政府へ派遣している藩士で、家老の窪田でも勝手に命令できない。新政府弁事務所にかけあって許可をもらい、6月29日相馬を高田に派遣、7月9日に着いた。そこで藩の事情を詳しく述べ、ようやく寺田も釈放された。寺田、相馬はその足で[[柏崎市|柏崎]]まで赴き、[[薩摩国|薩摩]]の参謀[[吉井幸輔]]に会った。吉井は京都の窪田と親しく、新発田の実情もよく知っている人物だった。寺田、相馬は吉井に連れられ[[越後長岡藩|長岡]]にいる[[山縣有朋]]、[[黒田了介]]の両参謀とも会った。
* '''折から(七月十三日)参謀[[楠田英世|楠田十左衛門]]、新発田人寺田某、相馬某の両人を同道して到着したるが、両人の言ふ処によれば、新発田は賊徒のために迫られて、已むを得ず多少の兵を出したりといえども、もとより王師に抗するの意あるに非ざれば、両人帰郷の上、国内を鎮撫して、王師を迎うることとしたし、とのことにて、果してその言に詐りなければ、敵の背後に上陸すべき軍隊は、一層の便利を得るわけなり。よって吉井は同日、即ち十三日に柏崎に赴き、同処において海軍と、打ち合わせをなすことに決したり'''」 『越の山風』 山県狂介
 
吉井は二人に密命を伝え、旅券を渡し、新発田へ帰藩させた。7月20日に新発田に到着。
 
黒田了介を総指揮官とする1000余名の上陸部隊は、7月24日[[佐渡島|佐渡]]の小木港に寄港し、夜10時より新発田領太夫浜へ向けて出港した。25日朝、西軍は太夫浜に上陸、新発田城下へも知らせが飛び、藩士島村某の1小隊が上陸地点へ急行し、藩の帰順を伝え、城下へ先導した。半分は新潟方面へ、半分は新発田へ向かった。この夜、溝口半兵衛は、黒田と会談し、藩主が柏崎へ赴き、[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮]]に拝謁することによって官軍の疑念を晴らすよう勧められる。
* '''市民また自費をなげうち、頗る歓待せり'''」『新発田藩戊辰始末』
こういう状況だったので新発田藩は、江戸に400人、見附に500人、沼垂に200人派遣しているのに、即座に400人を城下周辺に配備させることができた。民兵達の力に負うところが大きかった。
 
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新発田の勤王の伝統は、特に十代藩主[[溝口直諒|直諒]]公の記した『報国説』からであるといわれる。直諒公隠居後、皇族や公家の間でも読まれたという。[[山崎闇斎]]の崎門学派の大義名分の心を述べたものである。この本が一般に読まれるようになり、藩内に勤王の根を張るに至った。相馬作右衛門の上申書にはこれまで[[皇室]]をないがしろにした将軍家の罪を上げ、先祖(家康)がいかに勲功があっても、子孫が間違ったことをするのなら、徳川家に臣節を尽くす必要はないとし、武力で自らの権勢を保持しようとするものに付けば大義名分を失するとした。藩儒寺尾文之進は5月30日の総登城の際、王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓である、全藩、城を枕に死すべきである、勝敗は問うところではないと主張。しかし、藩論は勤王に殉じて玉砕する方針は採らなかった。いわゆる正義党と違うのは、藩士、領民にとって、「勤王の藩」に尽くすことが大義名分なのであって、勤王を藩を超えた価値とし、ゆくゆくは藩を解消すべきと考える正義党の価値観は危険思想であった。方義隊の新保長三郎は戦後、同じ隊だった二階堂保則と口論している。物頭佐藤八右衛門は新保を「正義党ではあるけれども、御家への忠節が本である人間で、一通りの正義党の仲間には入らず、尽力した者である」と評価した。新保や庄屋九左衛門ら庄屋たちは進んで勤王思想を学び、藩の大事に進んで貢献した。
 
* 参考文献 『裏切り―戊辰新潟港陥落す』 [[中島欣也]]著 [[恒文社]] [[1988年]]
 
== 新発田藩を舞台にした作品 ==
*『露の玉垣』([[乙川優三郎]])
** 新発田藩家老・溝口半兵衛が家臣の系譜と閲歴を記した『世臣譜』という史料をもとにして、新発田藩の様々な家臣の生活を描いた小説。
 
== 著名な藩士 ==
* [[井上久助]]:新発田藩の危機(塩止め事件)を自分一人の責任として、[[会津藩]]に斬刑に処せられ、藩を救った烈士。
* [[久米幸太郎]]:29年を掛けて[[仇討ち]]を遂げた藩士。
* [[桑田立斎]]:蘭方医、[[北海道]]で多くの[[天然痘]]患者を治療した藩士。
* [[堀部武庸]]:[[赤穂浪士]]。
 
== 幕末の領地 ==
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上記のほか、蒲原郡65村の[[天領|幕府領]]を預かり、6村が本藩、59村が新潟県(第1次)に編入された。
 
[[明治維新]]後に、[[蒲原郡]]319村(旧・[[村松藩]]領78村、[[会津藩]]領61村、[[三日市藩]]領18村、[[村上藩]] 6村、[[菊間藩]]領 5村、[[黒川藩]]領 2村、[[越後長岡藩]]領 1村、[[地方知行|旗本領]] 8村、[[幕府]]領151村、内訳は[[代官|水原代官所]]領81村、[[桑名藩]][[預地|預所]]63村、新発田藩預所 6村、[[三日市藩]]預所 1村)が加わった。なお[[相給]]も存在するため、村数の合計は一致しない。
 
== 関連項目 ==
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* [[藩の一覧]]
* [[鐘捲流]]
 
 
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{{s-ttl|title= 行政区の変遷
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[[Category:藩]]
[[Category:新発田藩|*]]