「モンゴル・南宋戦争」の版間の差分

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襄陽・樊城の陥落と呂文煥の投降が南宋の人民に与えた衝撃は大きく、また呂文煥が長年の人脈から長江流域に広く調略を行ったため、南宋は急速に基盤を緩めつつあった。この状況を見て取ったクビライは南宋への大侵攻を決定、[[バヤン (バアリン部)|バヤン]]を総大将とする空前の大軍が南下を始めた。
 
バヤンは自ら20万の大軍を率いて漢水に沿って襄陽から[[鍾祥市|安陸府]]へ南下し、漢口([[武漢]])で南宋の艦隊に阻まれた。呂文煥の案内で密かに軍の一部を徒渉させて艦隊を挟撃する構えをとったことで、おびえた南宋艦隊は撤退し、[[1274年]]には鄂州がモンゴル軍の手に落ちた([[州の役 (1274年)]])。
 
もともとバヤンはクビライにむやみに敵を殺害することを避け、できるだけ無傷で降伏させていくよう命令されていたため、鄂州でも一切の略奪を禁ずるなど丁重に扱っていたが、これが南宋側にも伝わると続々と投降者が出た。水陸並んで長江を下るモンゴル軍は投降した兵によって膨れ上がり、ようやく出陣してきた賈似道の軍も蕪湖の戦いで粉砕して[[杭州市|臨安]]に迫った。