「青山忠成」の版間の差分

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| 父母 = 父:[[青山忠門]]、母:卯野某娘
| 兄弟 =
| 妻 = 正室:'''[[天方通興]]娘'''
| 子 = [[青山忠次|忠次]]、'''[[青山忠俊|忠俊]]'''、[[朝比奈泰重]]、[[青山幸成|幸成]]、<br/>[[天方通直]]、[[川口近次]]室
| 特記事項 =
}}
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慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]においては秀忠の軍に従軍し遅参したものの、翌慶長6年([[1601年]])に常陸江戸崎1万5,000石の所領を得ている。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、江戸開府後も[[本多正信]]・[[内藤清成]]と共に老中として幕政において重きをなした。慶長11年([[1606年]])、内藤と共に一時蟄居を命ぜられているがすぐに赦免されている。同年1万石を加増され、所領は2万5,000石となった。
 
慶長18年(1613年)、63歳で死去し、跡を次男・[[青山忠俊|忠俊]]が継いだ。
 
== 関連項目 ==