「チェルヴェンの諸都市」の版間の差分

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==歴史==
チェルヴェンの諸都市は、[[キエフ大公国]]と[[ポーランド王国]]の間において、しばしば紛争の火種となった<ref name='Эс'></ref>。年代記上の初出は[[981年]]の記述であり、[[キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]がポーランド人から奪取した<ref name='ЭсБЕ'>[http://dic.academic.ru/dic.nsf/brokgauz_efron/113119/%D0%A7%D0%B5%D1%80%D0%B2%D0%B5%D0%BD%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B5 Червенские города] // [[:ru:Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона|Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона]]([[ブロックハウス・エフロン百科事典]])</ref>。その後[[1018年]]に<ref>A. Buko. "The archaeology of early medieval Poland". Brill. 2008. </ref>、[[スヴャトポルク1世|スヴャトポルク]](スヴャトポルク1世)が[[キエフ大公]]位を[[ルーシ内戦 (1015年 - 1019年)#ブク川の戦い|奪還するための支援]]を受けたことの返礼として、[[ポーランド公]]レスフ(後に[[ポーランド王]][[ボレスワフ1世 (ポーランド王)|ボレスワフ1世]])に返還した<ref name='Эс'></ref>。さらに[[1301年]]には、[[マゾフシェ]]征服への支援への交換条件として、再びルーシ側に返還された。キエフ大公国の分裂期[[:ru:Распад Древнерусского государства|(ru)]]には、チェルヴェンの諸都市は[[ヴォルィーニ公国]](後に[[ガーリチ・ヴォルィーニ公国]])の支配圏にあった<ref name='Эс'></ref>。14世紀には再びポーランド王国領となり、[[紅ルーシ]]({{lang|pl|Ruś Czerwona}})という名称で呼ばれるようになった。
 
==地理==