「随州市」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
国家宗主 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
タグ: モバイルアプリ編集
編集の要約なし
65行目:
[[1912年]]([[中華民国暦|民国]]元年)、[[中華民国]]が建国されると州制廃止に伴い随州は[[随県]]と改称、州署は県知事公署と改編され[[湖北省 (中華民国)|湖北省]]の管轄とされた。[[1914年]](民国3年)、[[北京政府]]による道制施行に伴い'''江漢道'''の管轄とされ、県議会や参事会による地方自治制度の整備が進められた。[[1927年]]、[[国民政府|南京国民政府]]により県知事公署も県政府と、県知事は県長とそれぞれ改称された。1931年(民国20年)、督察区制度の施行に伴い、湖北省第五行政督察区([[1936年]]に第3区に変更)の所管とされ、専員公署の商材地とされた。
 
また[[1927年]]から[[1929年]]にかけて[[中国共産党]]はこの地で武装蜂起、祝林、青苔、呉山3区の革命委員会を設置、1931年4月から1932年6月にかけては桐柏山、大洪山地区に5つの[[中国共産党革命根拠地|ソビエト政府]]を樹立、また[[日中戦争]]中の[[1940年]]6月から[[1944年]]9月にかけては[[洪山県]]、[[随南県]]、[[信随県]]、[[随北県]]、[[応随県]]、[[随中県]]、枣陽[[随陽県|県]]、[[随枣県]]の各愛国民主政府を樹立している。
 
[[国共内戦]]末期の[[1949年]]5月、随北、随南両県は随県と合併、[[随枣県]]、[[応随県]]の旧随県管轄地域も随県に編入され[[孝感行政区]]の、洪山県は[[襄陽行政区]]の管轄とされ、中華人民共和国建国初期に沿襲された。[[1952年]]、随県は襄陽行地区に移管、洪山県は廃止となりその管轄区域の大部分は随県に編入された。