「フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (トルブチェフスク公)」の版間の差分

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[[リューベチ諸公会議]]の後の[[1180年]]、[[チェルニゴフ公]](兼キエフ大公)スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Всеволодович (князь киевский)|(ru)]]と共に[[ウラジーミル大公]][[フセヴォロド3世|フセヴォロド]]の元へ行き、ヴレナ川<!--[[:ru:Веля]]ここ?-->で[[リャザン公国]]の公たちを追い払った。その後[[チェルニゴフ]]へと帰還し、[[1183年]]にもう一人の兄の[[イーホル・スヴャトスラーヴィチ|イーゴリ]]と共にヒリヤ川([[ホロール川]])へのポロヴェツ族に対する遠征に向かい、勝利した。
 
『イパーチー年代記[[:ru:Ипатьевская летопись|(ru)]]』の[[1185年]]の頁では、[[デスナ川]]中流域の都市・トルベツク([[トルブチェフスク]])を領するトルチェフスク公として言及されている<ref>木村彰一 「付録 イーゴリの遠征にかんする『イパーチイ年代記』の記事」 // 『イーゴリ遠征物語』p126</ref>。一方、『[[イーゴリ遠征物語|イーゴリ軍記]]』においてはクルスク公となっており<ref>木村彰一『イーゴリ遠征物語』p23</ref>、おそらくこの時にはクルスクとトルプチェフスクとを両有していたと思われる。いずれにせよ、1185年にポロヴェツ族への遠征を行ったフセヴォロド、兄イーゴリ、甥[[ウラジーミル・イーゴレヴィチ|ウラジーミル]]らはポロヴェツ族に敗北し、捕虜となった。フセヴォロドと甥のウラジーミルがルーシに帰還したのは[[1187年]]のことである。[[1191年]]に、イーゴリと共に再びポロヴェツ族への遠征を行ったが、戦闘には至らず帰還した。
 
[[1194年]]、キエフ大公スヴャトスラフ[[:ru:Святослав Всеволодович (князь киевский)|(ru)]]の招集によるロゴヴォ諸公会議{{refnest|group="注"|ロゴヴォは[[ブリャンスク州]]の地名。ルーシの諸公会議については[[:ru:Съезды русских князей]]参照。}}の決定に従い、フセヴォロドは領土争いの解決のために[[リャザン (ルーシ)|リャザン]]へ行く準備を整えていた。しかしチェルニゴフ領域の公たちはフセヴォロドの決定に猛反発し、フセヴォロドは自領に留まった。