「ベルリン封鎖」の版間の差分

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ソ連による完全封鎖の開始後、西ベルリンでは燃料や食糧だけでなく、[[石鹸]]や[[トイレットペーパー]]などの生活用品や、薬品までが短期間で欠乏し、市民生活が危機に陥ることが予想された。そこでアメリカやイギリスを中心とする西側は、[[アメリカ空軍]]の[[カーチス・ルメイ]]戦略空軍司令官らが立案した物資の空輸作戦を実施することにした。アメリカの空輸作戦の名前は「糧食作戦」(オペレーション・ヴィットルズ Operation Vittles)とされた。一方イギリスの空輸作戦は「プレインフェア作戦」(Operation Plainfare)とされたが、イギリスの空輸部隊もアメリカ側の指揮の下で活動した。一般には「ベルリン大空輸」(Berlin Airlift)として知られる。
 
6月26日、[[ヴィースバーデン]]と[[フランクフルト空港|ラインマイン]]の両基地から[[C-47 (航空機)|C-47]]輸送機が45 [[トン|t]]の物資を[[ベルリン・テンペルホーフ国際空港|テンペルホーフ空港]]に輸送し、空輸作戦が開始された。C-47輸送機は100機以上がかき集められ、ベルリンまでの輸送任務に就いた。C-47より大型の[[ダグラス DC-4|C-54]]輸送機もアメリカ本土などから派遣された。イギリスはC-47と同型のダコタや[[アブロ ヨーク]]などを派遣した。7月に入ると、アメリカ空軍の軍航空輸送隊(MATS: [[:en:Military Air Transport Service|Military Air Transport Service]]、後に[[軍事空輸軍団]]を経て[[航空機動軍団]])のウィリアム・タナー少将 ([[:en:William H. Tunner|William H. Tunner]]) が臨時空輸任務群(Airlift Task Force, Provisional、11月に第1空輸任務群 1st Airlift Task Forceに改変)の司令官に就任し、空輸作戦の指揮を執った。
 
6月30日にアメリカのマーシャル国務長官が「我々はベルリンを放棄するつもりはない。市民への食料、物資の補給は可能な限り実施されるだろう」と言明し、米英は西ベルリンを放棄せず、空輸作戦により市民生活を断固として支える決意を示した。