「直江兼続」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎死後: 江戸時代の項と記述が重複のために整理
134行目:
[[画像:Noae Kanetugu Yoroi.jpg|thumb|200px|直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」]]
 
* 江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に、兼続は謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍し、その寵愛深い[[衆道]]の相手かつ信頼の篤い近臣であったといわれている。しかし実際には、生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は一切確認されておらず、青少年期の兼続が謙信に近侍していたか否かは不明である<!--謙信から見た兼続は単なる「景勝の近侍」の一人に過ぎないとする説や両者の間に面識は無かったとする説も一部にあるが、信憑性は不明。--><ref group="注釈">現在、研究者の間で一般に謙信の寵臣と目されている[[河田長親]]や[[中条景泰]]は、10代の頃から謙信に近侍し寵用されていたことが、謙信直筆の書状をはじめとする複数の一次史料によって立証されている。近年、[[山田邦明]]は、謙信の母の父とされる長尾顕吉を発給文書の署名より、景勝の祖父である[[長尾房長]]の一代前の上田長尾家当主であるとの説を唱えている。謙信の母が上田長尾家出身であるのかどうかはまだ多くの疑問点があるものの、上田長尾家家臣団の中には栗林政頼や謙信の命で甘糟家を相続した[[甘糟景継]]など、謙信配下で活躍したものたちも少なくない。謙信時代ないし謙信配下としての兼続の立場・処遇については今後の研究が待たれる。</ref>。
* 天正8年([[1580年]])の樋口氏時代の書状は、当時の兼続が景勝の配下としてその意思を代行していたことを示すものであるとされて、若年期よりの兼続と景勝の関わりを実証し得るものとされている<ref group="注釈">後年、[[新井白石]]が『[[藩翰譜]]』上杉譜内で、[[大田錦城]]が、随筆『[[梧窓漫筆]]』内において、また昭和に入り[[南方熊楠]]が[[岩田準一]]との往復書簡内において、景勝と兼続は衆道関係にあったと断言しているが、それを裏付ける一次史料などは見られない。</ref>。
* 米沢への転封の際に、上杉家は大変な財政難のため、老臣の中には家臣の減員を提案した者もいたが、兼続は断じてこれに反対し、「かくの如き際は人程大切なるものはいない、一同協力して復興を計るべきである」として新季奉公の牢人連の去る者は追わなかったが、旧来の家臣は一人も去る事を許さなかった『天雷子続』<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)453頁</ref>。米沢はかつての領国の4分の1の石高の地で、上杉家を待っていたのは厳しい暮らしであった。しかし、兼続はここで家臣と家族3万人を養おうと、自らは質素な暮らしをしながら、国造りに取り組む。[[米沢市]]の郊外には、兼続の指示で土地を開いた武士の子孫が今も暮しており、その家の周りには[[栗]]や[[柿]]そして生垣にはウコギが植えられている。いずれも食べられる食用の木である。兼続は実用的な植物を植えさせることで、人々の暮らしの助けになるよう心を配っていた。この様に農業の振興に尽力した事から、後の[[元禄]]年間に著された「四季農戒書」(「地下人上下共身持之書」)の作者に仮託<ref>今福匡『直江兼続』(新人物往来社、2008年)302頁</ref>されている<ref>木村徳衛『直江兼続伝』(私家版、1944年)271頁-276頁</ref>。