「小原鑑元」の版間の差分

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弘治2年([[1556年]])5月、大友家中の他紋衆(大友氏が[[豊後国]]へ来る以前からここに領地を持って住んでいた武家)を糾合し、大友庶家である同紋衆の重用政策に反対して挙兵。同紋衆と他紋衆の反目は大友家中に以前から有り、あえて義鑑は加判衆の半数を他紋衆から選ぶように遺言していた。しかし義鎮は同紋衆を重用し、鑑元は肥後平定後加判衆から外されていた。
 
他紋衆の挙兵は[[大友氏館]]のある[[府内 (豊後国)|府内]]でも発生し、一時は当主義鎮も要害の[[丹生島城]]へ避難する事態となったが、同紋衆の働きにより、共に挙兵した[[本庄統綱|本庄新左衛門尉統綱]]、[[中村長直|中村新兵衛長直]]、[[賀来惟重|賀来紀伊守惟重]]らは豊後で討ち取られ、[[佐伯惟教]]は[[伊予国]]に逃亡した。勇将である鑑元は南関城に籠城し城兵を叱咤して奮戦したが、城に火をかけられるに及んで妻子を手に掛け、城兵と共に城外に打って出て討死した。
 
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