「城島城」の版間の差分

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天正13年[[4月28日_(旧暦)|4月28日]]([[1585年]][[5月27日]])、城島城も大友軍の攻撃を受けた。
 
『筑後国史』によると西牟田新助家親は、弟の[[新右衛門家和]]に、「いかに戦国の世とは言え、昨日までの味方が島津や大友に媚びてその手先となるは口惜しき次第。今こそ不義の賊どもを滅ぼし、これがかなわなければ潔く死んで、忠義の重さを天下に示さん」と言ったという。すると弟は、「仰せのとおり。この一戦を戦うは武門の冥利につきます」と答え、一族、家士ら300騎を指揮して、弓、鉄砲を撃ちかけ、長刀、槍の切っ先を揃えて大勢の敵の中へ分け入って火花を散らして戦った。大友方は次々と死傷者が増えて押され気味だったが、立花勢は大友軍最強を謳われ、また大軍でもあったのでなかなか勝負がつかなかった。しかしそこへ佐賀から龍造寺政家の援兵が到着し、西牟田勢と一体となって戦ったので、一気に大友方は劣勢となった。大友勢は、立花道雪の弟・右衛門大夫ら100-200名が討取られ(ただし、<ref>立花(戸次)右衛門が城島城の攻防戦で戦死したとする文献『筑後国史』のほかにも複数あるが、戸次氏系図には「慶長5年於筑後国八院戦死」とあり、関が原の際で対戦いの後の鍋島勢と侵攻戦い「八院合戦」で戦死したという可能性がある。尚、こ「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所事実)八院ではなく、城島付近となっている。</ref>、数え切れぬほどの負傷者を出して撤退した。(<ref>『薦野家譜』によれば、最終的に立花高橋城島城を筑後諸城と共に攻め落としような記述が存在するが、『筑後国史』『北肥戦誌』『歴代鎮西志』『鍋島直茂公譜』等の肥前、筑後の文献ではみな立花・高橋勢は撃退されたことになっている。またこの戦いの後、西牟田家親は立花・高橋勢に勝利した恩賞として龍造寺氏から新たな領地をもらっている。これらのことから推測すると、豊臣秀吉の国替えまでは西牟田氏が西牟田城を維持し続けたと考えられる。</ref>。
 
西牟田兄弟の武勇と城島城の堅固さは、九州に響いたという。
 
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