「承平天慶の乱」の版間の差分

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Poohpooh817 (会話 | 投稿記録)
「調停仲裁」は意味が通じない。単に「調停」でよい。
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間もなく、貞盛が下野国[[押領使]]の[[藤原秀郷]]と力をあわせて兵4000を集めているとの報告が入った。将門の手許には1000人足らずしか残っていなかったが、時を移しては不利になると考えて、2月1日に出陣する。貞盛と秀郷は[[藤原玄茂]]率いる将門軍の先鋒を撃破して下総国川口へ追撃して来た。合戦になるが、将門軍の勢いはふるわず、退却した。
 
貞盛と秀郷はさらに兵を集めて、2月13日、将門の本拠石井に攻め寄せ火を放った。将門は兵を召集するが形勢が悪く集まらず、僅か兵400を率いて陣をしいた。貞盛と秀郷の軍に[[藤原為憲]]も加わり、翌2月14日、連合軍と将門の合戦がはじまった。南風が吹き荒れ([[春一番]])、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、貞盛、秀郷、為憲の軍を撃破した。しかし将門が勝ち誇って自陣に引き上げる最中、急に風向きが変わり北風になると([[寒の戻り]])、風を負って勢いを得た連合軍は反撃に転じた<ref>[http://www.geocities.jp/srkhayasi/kikou2.html 将門の負因は低気圧?]</ref>。将門は自ら先頭に立ち奮戦するが、いずくからか飛んできた矢が将門の額に命中し、あっけなく討死した。
 
将門の死により、その関東独立国は僅か2ヶ月で瓦解した。残党が掃討され、将門の弟たちや興世王、藤原玄明、藤原玄茂などは皆誅殺される。将門の首は京にもたらされ梟首とされた。将門を討った秀郷には従四位下、貞盛、為憲には従五位下にそれぞれ叙爵された。