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この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日[[鳥羽 (洛外)|鳥羽]]([[京都市]])で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった([[鳥羽・伏見の戦い]])。しかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して[[錦旗]]を与え、幕府軍は[[朝敵]]となってしまう。そのため[[淀藩]]・[[津藩]]などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦[[開陽丸]]で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。
 
新政府は7日徳川慶喜追討令を発し<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、246頁〈征討大号令宣布ノ事〉以下</ref>、10日には慶喜・[[松平容保]]([[会津藩]]主、元[[京都守護職]])・[[松平定敬]]([[桑名藩]]主、元[[京都所司代]])を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、[[京都]]藩邸を没収するなどの処分を行った<ref>{{efn|朝敵はその罪状の軽重によって5等級に区分されていた。すなわち第一等は徳川慶喜(前将軍)。第二等は鳥羽・伏見の戦いで敵対した主力である松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)。第三等は在阪して幕府軍に協力し、慶喜の江戸脱走に同行した者として、[[松平定昭]]([[伊予松山藩]]主)、[[酒井忠惇]]([[老中]]・[[姫路藩]]主)、[[板倉勝静]](老中・[[備中松山藩]]主)。第四等は藩主が在阪中に家臣が発砲したが速やかに上京・謝罪した[[松平宗武|本庄宗武]]([[宮津藩]]主)。第五等は藩主が在国中であったが在坂の家臣が発砲し、後に藩主が上京・謝罪した[[戸田氏共]]([[大垣藩]]主)、[[松平頼聰]]([[高松藩]]主)である。</ref>}}。翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督[[東久世通禧]]から諸外国<ref group="注釈">{{efn|フランス・イギリス・[[プロイセン王国|ドイツ]]・[[イタリア王国|イタリア]]・[[オランダ王国|オランダ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の6ヶ国。</ref>}}の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、[[軍事顧問]]の派遣などの援助を行わないよう要請した。これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。
 
===旧幕府側の主戦論と恭順論===
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:'''外国事務総裁''' : [[山口直毅]]、'''副総裁''' : [[河津祐邦]]
 
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。この時期、[[フランス第二帝政|フランス]][[公使]][[レオン・ロッシュ]]がたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は[[徳川茂承]]([[紀州藩]]主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分<ref group="注釈">罷免・逼塞を命じられたのは、[[大河内正質]]([[老中]]、[[大多喜藩]]主)、[[竹中重固]](若年寄)、[[塚原昌義]](同)、[[滝川具挙]](大目付)、[[永井尚志]](同)など。</ref>、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じた<ref group="注釈">{{efn|江戸城登城を禁止された松平容保・松平定敬・板倉勝静らは慶喜に切り捨てられる形で事実上の江戸追放の扱いになり、江戸から離れた関東・東北の所領やゆかりの寺社などに落ちていき、結果的に新政府への抵抗の道を選ぶ事になる。一方で、本国が江戸に近い[[上総国]]にあった大河内正質や一連の処分の対象外であったものの江戸開城直前の3月7日に官位剥奪の追加処分を受けた[[酒井忠惇]](老中、[[姫路藩]]主)は新政府軍の進軍に対応する間もなく降伏に追い込まれたため、結果的には軽微な処分で宥免されるなど、明暗を分けることになった<ref>{{Citation|和書|last=水谷|first=憲二 |author-link= |editor=|title=戊辰戦争と「朝敵」藩 -敗者の維新史-』(|year=2011|chapter= |publisher=八木書店、2011年)P179|pages=179-180, 194-195)。195 |isbn=9784840620444}}</ref>。}}。12日、慶喜は江戸城を[[徳川慶頼]]([[田安徳川家]]当主、元[[将軍後見職]])・[[松平斉民]](前[[津山藩]]主)に委任して退出し、[[上野]][[寛永寺]]大慈院<ref group="注釈">大慈院はほぼ現在の寛永寺の寺域に相当する。当時の寛永寺はより広大だったが、上野戦争で焼失して以来、縮小された。</ref>に移って、その後謹慎生活を送った。
 
===新政府側の強硬論と寛典論===
[[画像:Taruhito Arisugawanomiya.jpg|thumb|200px|熾仁親王]]
新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた<ref name="saigou">『大久保利通文書』西郷隆盛 大久保利通宛書状(慶応四年二月二日付)「慶喜退隠の嘆願、甚以て不届千万。是非 切腹迄ニハ参り申さず候ては相済まず(中略)静寛院と申ても矢張賊の一味と成りて退隠ぐらいニて相済候事と思し召され候はゝ致方なく候に付、断然追討あらせられ候事と存じ奉り候」</ref>。大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる<ref name="ookubo">『大久保利通文書』大久保利通 [[蓑田伝兵衛]]宛書状(慶応四年二月十六日付)「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候。反状顕然、朝敵たるを以て親征と迄相決せられ候を、遁隠位を以て謝罪などゝ、益愚弄し奉るの甚舗に御坐候。天地容るべからざる之大罪なれば天地之間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」。</ref>。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。
 
一方、長州藩の[[木戸孝允]]・[[広沢真臣]]らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・[[伊達宗城]](前[[宇和島藩]]主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。
 
新政府はすでに[[東海道]]・[[東山道]]・[[北陸道]]の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には[[橋本実梁]]を東海道鎮撫総督に、同9日には[[岩倉具定]]を東山道鎮撫総督に、[[高倉永サチ|高倉永&#31068;]]を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。2月9日には新政府総裁の[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]が[[東征大総督]]に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。大総督府参謀には[[正親町公董]]・[[西四辻公業]](公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と[[林通顕]](宇和島)が補任された。2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている<ref>{{efn|原口清「江戸城明渡しの一考察」(『名城商学』21巻2・3号、1971~72年)。慶喜恭順の条件は以下の通り。
[[画像:Taruhito Arisugawanomiya.jpg|thumb|200px|熾仁親王]]
新政府はすでに[[東海道]]・[[東山道]]・[[北陸道]]の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には[[橋本実梁]]を東海道鎮撫総督に、同9日には[[岩倉具定]]を東山道鎮撫総督に、[[高倉永サチ|高倉永&#31068;]]を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。2月9日には新政府総裁の[[有栖川宮熾仁親王|熾仁親王]]が[[東征大総督]]に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。大総督府参謀には[[正親町公董]]・[[西四辻公業]](公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と[[林通顕]](宇和島)が補任された。2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている<ref>原口清「江戸城明渡しの一考察」(『名城商学』21巻2・3号、1971~72年)。慶喜恭順の条件は以下の通り。
#慶喜若真ニ恭順恐入、奉待天譴候心底ナラハ、軍門ニ来リ而可拝事(もし慶喜に真実恭順の意思があり、天皇の処罰を受け入れる気があるなら、大総督府に出頭して大総督に拝謁すること)
#城者迅速明渡シ可申事(江戸城は速やかに明け渡すこと)
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#旗下之者共不残向嶋ヘ移リ、謹可居事(江戸城下の幕臣は残らず[[向島 (墨田区)|向島]]([[東京都]][[墨田区]])へ移り、謹慎すること)
#兵器・弾薬・砲銃等不残可指出事、外ニ斬首之幕吏百余位可有之事(兵器・弾薬類は残らず差し出すこと、また、100人程度の幕臣が斬首されるべきである)
}}
</ref>
この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった<ref>{{efn|『大久保利通文書』二 慶応四年二月(日付不明)意見書<br />「一、恭順之廉ヲ以、慶喜処分之儀寛大仁恕之思食ヲ以、死一等ヲ可被減事<br /> 一、軍門へ伏罪之上、備前ヘ御預之事<br /> 一、城明渡之事。但軍艦鉄砲相渡候勿論之事<br /> 右三ヶ条を以早々実行ヲ挙候様、朝命厳然降下、若シ奉ゼズンバ、官軍ヲ以テ可打砕之外、条理有之間敷奉存候事」。</ref>}}
 
==徳川家側の動き==
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いっぽう輪王寺宮公現入道親王は2月21日、江戸を発って[[東海道]]を西に上り、3月7日には駿府で大総督熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。
 
また、天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったといわれる<ref>『海舟語録』などによる。</ref>が、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し<ref group="注釈">輪王寺宮が駿府へ赴いたことが記載されているため、2月21日以降に書かれたものと思われる。</ref>、さらに3月11日には東征軍への使者として老女を遣わしている<ref>{{efn|この年寄は天璋院附きだったものの引退していた[[幾島]]と思われる。『天璋院様御履歴』「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」</ref>}}。天璋院の使者たちは13日に西郷隆盛と面会し、同19日には西郷から天璋院に嘆願を受け入れる旨の連絡があった<ref>{{efn|これを受けて天璋院は、家中に対し静謐を保つよう御触れを出している。『天璋院様御履歴』「此度天璋院様より女中御使ニ而薩州先手隊長迄御嘆願御願之筋被為在候処、西郷吉之助より右御請申上候趣有之、大総督府伺済迄御討入御見合ニ相成候段、同人より相答候趣ニ而万々一不心得之者等有之候而者、御家之御一事ニも相成、御心痛被遊候御廉も相立不申儀ニ付、右等篤与相心得一統穏ニ人気も鎮り騒立不申、神祖以来之御家ニ御奉公与存、心得違等決而無御座様急度慎可相守段天璋院様御意ニ被為在候、右之通大奥より披仰出候間、向々江不洩様可被相触候」</ref>}}。なお、山岡鉄舟はこれらの使者の働きがほとんど影響を与えなかったと考えていたようである<ref>『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「先日来静寛院宮・天璋院の使者来りて、慶喜殿恭順謹慎の事を歎願すといへども、唯恐懼するのみにて条理分らず、空しく立戻りたり」。</ref>。
 
これらの歎願は、下参謀西郷隆盛らに心理的影響を与えた可能性があり<ref>{{efn|西郷は天璋院からの書状を読んで涙を流したという。「一新録探索書」(『肥後藩国事史料』)「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しツヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致」。</ref>}}、幕末の大奥を題材とした小説やドラマなどでは、積極的にエピソードとして採用されている。
 
===山岡鉄太郎の準備交渉===
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勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し<ref>『海舟日記』慶応四年三月五日条「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」。</ref>、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助<ref>『海舟日記』慶応四年三月二日条「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり、訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらる。早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某申す旨ありしを以て、此頃、此事 上聴に達し、御旨に叶う。此日、右三人、某へ預け終る」。</ref>を護衛につけて送り出した(山岡と益満は、かつて[[尊王攘夷]]派の浪士[[清河八郎]]が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった)。
 
山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。すでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。ここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。このとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である<ref>{{efn|『海舟日記』慶応四年三月十日条「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、且、総督府の御内書、御所置の箇条書を乞うて帰れり。嗚呼、山岡氏沈勇にして、その識高く、能く君上の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり。その御書付は、<br />一 慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せつけらるべき事<br />一 城明け渡し申すべき事<br />一 軍艦残らず相渡すべき事<br />一 軍器一宇相渡すべき事<br />一 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事<br />一 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事<br />一 玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相慎むべき事<br />右の条々実効急速相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事」。</ref>}}
 
#徳川慶喜の身柄を[[備前藩]]に預けること。
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#暴発の徒が手に余る場合、官軍が鎮圧すること。
 
これは去る6日に大総督府軍議で既決していた「別秘事」に(若干の追加はあるものの)概ね沿った内容である。山岡は上記7箇条のうち第一条を除く6箇条の受け入れは示したが、第一条のみは絶対に受けられないとして断固拒否し、西郷と問答が続いた。ついには山岡が、もし立場を入れ替えて西郷が[[島津忠義|島津の殿様]]を他藩に預けろと言われたら承知するかと詰問すると、西郷も山岡の立場を理解して折れ、第一条は西郷が預かる形で保留となった<ref>{{efn|『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「鉄太郎、謹みて承りぬ、但慶喜を備前に徙すとの一事は命を奉じ難し、といへるに、吉之助は朝命なりとて肯せず、鉄太郎乃ち、然らば試に先生と地を易へて論ぜん、島津公若し誤りて朝敵の名を蒙らんに、先生は其君を差出して安閑たるべきか、といふに及びて、吉之助黙然たりしが、少時ありて、よし、慶喜殿の事は吉之助きつと引受けて取計らふべしと答へ、乃ち大総督府陣営通行の符を与へて還らしむ」。</ref>}}
 
山岡はこの結果を持って翌10日、江戸へ帰り勝に報告<ref>{{efn|3月12日付松平春嶽宛大久保一翁書簡から、山岡の江戸帰還が12日であると推測する説もある{{sfn|松浦|2010|p=359-360}}</ref>}}。西郷も山岡を追うように11日に駿府を発って13日には江戸薩摩藩邸に入った。江戸城への進撃を予定されていた15日のわずか2日前であった。
 
===焦土作戦の準備===
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[[画像:Takamori Saigo.jpg|thumb|200px|西郷隆盛]]
[[画像:Site of Meeting between Saigo and Katsu 01.jpg|thumb|200px|会見之地の記念碑]]
山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・[[大久保一翁]]、陸軍総裁・[[勝海舟]]と、大総督府下参謀・[[西郷隆盛]]との江戸開城交渉は、[[田町 (東京都港区)|田町]](東京都[[港区 (東京都)|港区]])の薩摩藩江戸藩邸において<ref group="注釈">{{efn|実際に会談が行われた場所については異説もあり疑義を生じている。勝の『氷川清話』では西郷は田町の薩摩屋敷に談判に来たとの記述がある。ところが、勝の日記『慶応四戊辰日記』には3月13日に「高輪薩州之藩邸」に出張したとの記述があり、翌14日にも「同所」に出張したとの記述があるためである。当時、高輪には薩摩藩下屋敷があり、田町には薩摩藩蔵屋敷があったが、二地点では2kmも離れている。14日の会談は13日と「同所」と書いてあるが、これは同じ薩摩藩邸という意味に過ぎず、13日は高輪の藩邸で14日は田町の藩邸で行われたものとみられている。なお、西郷隆盛の書による「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」の記念碑は田町側に建てられている{{sfn|松浦|2010|p=363-364頁。}}{{sfn|船戸|1994|p=280-281頁</ref>}}。}}、3月13日・14日の2回行われた。小説やドラマなどの創作では演出上、勝と西郷の2人のみが面会したように描かれることが多いが、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から[[村田新八]]・[[桐野利秋]]らも同席していたと思われる。
 
勝と西郷は[[元治]]元年([[1864年]])9月に大坂で面会<ref group="注釈">このとき勝は[[軍艦奉行]]並、西郷は[[長州征討|第一次長州征伐]]軍参謀であった。</ref>して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。西郷は徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた<ref name="saigou2">慶応四年三月十二日付西郷通達(『西郷隆盛全集』第2巻)「陳れば大総督より江城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日より内には、必ず御動き下され間敷合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候」。</ref>。
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西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、[[イギリス|英国]]公使[[ハリー・パークス]]からの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。
 
[[画像:HSParkes.jpg|thumb|right|200px|ハリー・パークス]]
正月25日の局外中立宣言後、パークスは[[横浜]]に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、[[公使館]][[通訳]][[アーネスト・サトウ]]を江戸へ派遣して情勢を探らせるいっぽう、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。
 
東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀[[木梨精一郎]](長州藩士)および[[渡辺清 (政治家)|渡辺清]](大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずに[[セントヘレナ島]]への[[流刑]]に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは[[万国公法]]に反するとして激昂し、面談を中止したという<ref>渡辺清 述「江城攻撃中止始末」(『史談会速記録』第六十八輯)。</ref>。またパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという<ref>「復古攬要」(『大日本維新史料稿本』)「一.慶喜仏国ヘ応接依頼イタシ候節ハ、仏国ニ於テイカガ取計可申哉。答(パークス).西洋諸国ニ於テ不条理ハ引受不申、決テ御心配ニ不及候。一.慶喜進退相迫、万一洋行之頼候節、貴国ニ於テイカガ取計有之候哉。答.慶喜洋行之頼候ワバ、差免候。是ハ万国公法ニ御座候」。</ref>。このパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである<ref>前出「江城攻撃中止始末」より。「直ぐ西郷の所へ行きまして、横浜の模様を斯々といいたれば、西郷も成る程悪かったと、パークスの談話を聞て、愕然として居りましたが、暫くしていわく、それは却て幸いであった。此事は自分からいうてやろうが、成程善しという内、西郷の顔付はさまで憂いて居らぬようである」。</ref>。
 
ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。そもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。主に3月13日説をとる史料<ref>「復古攬要」「戊辰中立顛末 一」(『大日本維新史料稿本』)、「横浜情実」(『改訂肥後藩国事史料』[[安場保和]]報告書添付史料)。安場保和(一平)は木梨・渡辺の留守を守る参謀であった。</ref>が多いが、14日説をとるもの<ref>「岩倉家蔵書類」(『大日本維新史料稿本』)、</ref>、日付を明示していないもの<ref>前掲「江城攻撃中止始末」。</ref>もある。しかし、いずれもパークスが'''先日'''上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。

パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため<ref>1868年4月5日付スタンホープ(英国海軍大佐、オーシャン号艦長)パークス宛書状、1868年4月9日付パークス発 [[ダービー伯エドワード・ヘンリー・スタンリー|スタンレー]]外相宛書状。</ref>、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない<ref group="注釈">前述13日説をとる「復古攬要」も、本文中にあるパークスの言葉中に「昨日ソンテイ(sunday)に有之候得共」とあり、実際には3月13日(洋暦4月5日)が日曜日であることから、この対話が14日(月曜日)に行われたことが伺える。</ref>。となると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。そのため[[萩原延壽]]は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている<ref>『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄7 江戸開城』「江戸開城」(朝日新聞社、2000年)。</ref>。事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている<ref>前掲「江城攻撃中止始末」。「退助が真先に西郷の所へ参っていうに、何を以て明日の攻撃を止めた乎(中略)如何にも激烈の論を致しました。(中略)それはこの席にある渡辺が横浜へ参り、斯よう斯ようである、どうも之れに対しては仕方がない。そこで板垣もなる程仕方がない、それなら異存をいうこともない、それでは明日の攻撃は止めましょう(中略)というて、板垣は帰りました」。</ref>。パークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている<ref>{{efn|『江城攻撃中止始末』「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得して居るのである。然るに兵を鈍らしてはならず、また慶喜の恭順も立てねばならぬ。(中略)明日の戦を止むると云うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。(中略)横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中は却て喜んで居るじゃろう」。</ref>}}
 
==江戸城明け渡し==
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勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた<ref>『戊辰日記』([[中根雪江]])慶応四年四月十二日条「此夕容堂君御来話にて、公(春嶽)へ御密語左の如し。去月十日、木戸準一郎、丸山今善に於て、長薩二侯、並びに阿侯([[蜂須賀茂韶]])、肥の長岡左京([[長岡護美]])公子と、各藩の有志とを会合して盛宴を張りたる(中略)畢竟、薩論、徳川公を忌憚する事甚だしく、大逆無道に座して罪死に抵らんことを庶幾せり。準一郎、その不当なるを患苦し、救済の一策を施さんと、先ず諸侯有志を会して和親を結び、再会に及んで此一件を議せんとの心算なりしに、何ぞ図らん、西郷去月十九日、俄然として上京して、東都の御処分を謀るに逢う。三条、岩倉、並びに顧問の輩、参朝して其議に及ぶ。此時、吉之助、徳川公大逆といえども、死一等を宥むべき歟の語気ある故、準一郎其機に投じ、大議論を発し、寛典を弁明し、十分の尽力にて、箇条書等も出来せり。徳川公免死の降伏は、準一郎の功、多に居るとぞ」。</ref>。
 
西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は[[徳川家達|田安亀之助]](徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して[[石高]]は70万石ないし50万石とすることなどを要求した<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、382頁〈東海道先鋒総督橋本実梁朝命ヲ田安慶頼ヘ伝達ノ事〉以下、387頁、「第一条 慶喜自ラ大総督ノ軍門ニ来リ謝罪スヘシ大総督ハ寺門ニ於テ謹慎ヲ命シ御沙汰次第新封地ニ於テ籠居ノ事。[[徳川家康|東照宮]]以来累代勤労之辺ヲ被思食徳川家名被立下相続人体ハ故家茂ヨリ静寛院宮ヘ遺言之次第モ有之旁以田安亀之助へ過被仰附哉之事。新封之事出格之御憐愍ヲ以テ於北国西国等七拾万石又ハ五拾万石位可被下賜哉但於土地者追而御沙汰之事</ref>。しかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。第五・七条は原案通り。第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁[[三条実美]]が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、388頁「第六条 妄挙ヲ助ケ候者御憐愍ヲ以テ寛宥之御沙汰相願候儀決而難被聞届候妄挙ヲ助ケ候者ニモ自ラ軽重之差別有之候ヘ共会桑二藩ノ如キハ巨魁ノ最タル者ニ候得者首級ヲ軍門ニ捧ケ候而謝罪不致候半テハ実効之廉相立ツト難申候(後略)」。</ref>。結局は会津・桑名<ref group="注釈">{{efn|ただし、桑名藩は1月28日に[[桑名城]]を無血開城して(城と所領は尾張藩の管理下に入る)在国藩士は全員謹慎しており、家老[[酒井孫八郎]]からは[[松平定教]](先代藩主の遺児)を新しい藩主に擁して恭順する旨の申入れが行われている。つまり、ここでの桑名はこうした情勢にも関わらず新政府への謝罪・恭順の意思を示さない定敬(及びその近臣)のことになる。この当時の桑名藩本国の動静については、{{harvtxt|水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、|2011年)}}を参照のこと。</ref>}}に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された<ref>[[#iwakurako-jikki|『岩倉公実記』中巻 (1906年)]]、390頁「第六条 罪魁慶喜死一等被宥候上ハ格別之寛典ヲ以テ其他ノ者モ死一等ハ可被宥候間相当之所置致可申出事。但万石以上之儀者書面之通可被仰附会桑ノ如キハ問罪之軍兵被差向降伏ニ於テハ相当之御処置可有之拒戦ニ於テハ速ニ屠滅可有之事」。</ref>。この決定が後の会津戦争に繋がることになる。修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。
 
この間の3月23日、東征軍海軍先鋒[[大原重実]]が横浜に来航し、附属参謀[[島義勇]]([[佐賀藩]]士)を派遣して徳川家軍艦の引き渡しを要求したが、勝は未だ徳川処分が決定していないことを理由にこれを拒否している<ref>「解難録」(『勝海舟全集』)。</ref>。勝としては交渉相手を西郷のみに絞っており、切り札である慶喜の身柄や徳川家の軍装に関して、西郷の再東下より前に妥協するつもりはなかったためである。
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その一方で、無血開城という事実が一人歩きし、内外に戊辰戦争全体が最低限の流血で乗り越えられたといういわば虚像をも産むことになる。しかし江戸開城自体は、戊辰戦争史全体の中では序盤に位置する事件であり、それ以後の[[北越戦争|長岡]]・[[会津戦争|会津]]・箱館まで続く一連の内戦は、むしろこれ以降いっそう激化していったのであり、決して内戦の流血自体が少なく済んだわけではない。江戸城という精神的支柱を失った幕臣たちの中にも、榎本の艦隊とともに北上し、戊辰戦争を戦い続ける者たちも少なくなかった。
 
[[江戸城]]が無傷で開城したことは半ば予想されたこととはいえ、新政府の主要士族たちにとっては拍子抜けでもあった。なぜなら、政府内において親徳川派であった[[松平春嶽]]などの列侯会議派が常に政府の主導権の巻き返しを図ろうとしていたうえ、にわか仕立ての新政府軍は、事実上、諸藩による緩やかな連合体に過ぎず、その結束を高めるためには強力な敵を打倒するという目的を必要としていたからである。そこで諸藩の団結強化のため、江戸城に代わる敵として想定されたのが、先の降伏条件でも問罪の対象として名指しされた[[松平容保]]の[[会津藩]](および弟の[[松平定敬]])であり、開戦前に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした[[庄内藩]]、また去就を明らかにしていなかった東北諸藩であった。佐幕派の重鎮であった[[会津藩]]は、藩主の松平容保が恭順を示していたものの、藩内は主戦論が支配的であり[[武装解除]]も拒否していたことから、新政府は会津の恭順姿勢を信用していなかった。抗戦派を排除してまで恭順を示した[[徳川慶喜]]には、それほど強硬な処分を求めなかった[[木戸孝允]]も、会津藩を討伐しなくては新政府は成り立たないと[[大久保利通]]に述べており<ref>『大久保利通文書』二巻 慶応四年四月二十九日付 大久保利通宛木戸書翰「大分会賊も横行仕候由、先々是ニ而寂寥を相助け申候。今日天下之有様を想察仕候に、一乱暴仕候もの無御座而ハ、却而朝廷今日之御為ニ相成不申候」。</ref>、大久保も賛同している<ref>{{efn|大久保はさらに、この期に及んでなお宥和論をとる越前藩にすら疑心暗鬼を懐いていた。『大久保利通文書』二巻 慶応四年閏四月二日付 木戸孝允宛大久保書翰「越藩抔之内情甚可怪次第も有之、若一回動揺有之節ハ何れニ賊有るも被図不申候」。</ref>}}
 
また、江戸城とともに従来の幕府の統治機構である幕藩体制が存続することは、強力な政府の下に富国強兵を図り、欧米列強に対抗しうる中央集権的な国家を形成しようとしていた新政府にとっては、旧弊を温存することにもなりうる諸刃の剣であった。結局のところ近代国家を建設するためには、各地を支配する藩([[大名]])の解体が不可避であり、いったん藩地と人民を天皇に返還する手続きを取ったのち([[版籍奉還]])、さらに最終的には幕藩体制自体を完全解体する[[廃藩置県]]というもう一つの[[革命]](こちらの革命は正真正銘無血で行われた)を必要としたのである。
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* 『[[大奥 (フジテレビの時代劇)#2003年版|大奥]]』(2003年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
 
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===注釈===
{{small|※以下、引用文の[[字体|旧字]]は新字に改めてある。}}
{{Notelist}}
==出典==
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
===出典===
{{reflist|2}}
 
==参考文献==
===解説書===
*『江戸開城 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』(荻原延壽、[[朝日新聞社]]、2008年、ISBN 978-4-02-261549-7)
*『戊辰戦争 敗者の明治維新』([[佐々木克]]、[[中央公論新社]]〈中公新書〉、1979年、ISBN 4-12-100455-8)
* {{Citation|和書|last=船戸|first=安之|author-link=船戸安之|series=成美文庫|title=勝海舟|year=1994|chapter= |publisher=[[成美堂出版]]|pages= |isbn=4415064043}}
*『勝海舟』(船戸安之、[[成美堂出版]]〈成美文庫〉、1994年、ISBN 4-415-06404-3)
*『徳川慶喜 将軍家の明治維新 増補版』([[松浦玲]]、中央公論新社〈中公新書〉、1997年、ISBN 4-12-190397-8)
*『徳川慶喜 幕末維新の個性1』([[家近良樹]]、[[吉川弘文館]]、2004年、ISBN 4-642-06281-5)
*『戦争の日本史 戊辰戦争』(保谷徹、吉川弘文館、2007年、ISBN 978-4-642-06328-9)
*『和宮 後世まで清き名を残したく候』(辻ミチ子、[[ミネルヴァ書房]]、2008年、ISBN 978-4-623-05094-9)
* {{Citation|和書|last=松浦|first=玲|author-link= |editor=|title=勝海舟|year=2010|chapter= |publisher=[[筑摩書房]]|pages= |isbn=9784480885272}}
*『勝海舟』(松浦玲、[[筑摩書房]]、2010年、ISBN 978-4-480-88527-2)
 
===;史料類===
*{{cite book|和書|ref=iwakurako-jikki|editor-last=多田|editor-first=好問(Tada, Kōmon)|title=岩倉公実記|volume=中巻|publisher=皇后宮職|year=1906|page=246|url={{NDLDC|781064/140}}|id={{近代デジタルライブラリー|781064}}}}(再版、[[原書房]] 1927年)
*『徳川慶喜公伝 4』([[平凡社]]〈[[東洋文庫 (平凡社)|東洋文庫]]〉、ISBN 4-582-80107-2)