「カール・マルクス・ホーフ」の版間の差分

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[[第一次世界大戦]]の敗戦、[[ハプスブルク帝国]]の崩壊を経たウィーンでは、[[オーストリア社会民主党|社会民主党]]が政権を握った([[赤いウィーン]])。旧帝国官吏の流入や戦後の結婚ブームにより世帯数が増加し、住宅難が深刻となったため、失業対策も兼ねて大量の市営住宅建設が計画された<ref>田口、p202。</ref>。1923年に15棟の集合住宅が完成し、以後、1924年から34年(社会民主党政権崩壊)までに384棟、61,175戸の集合住宅が建設された<ref>田口、p208。</ref>。
 
その中で最も有名なカール・マルクス・ホーフは、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の家や[[ホイリゲ]](ワイン酒場)で知られる[[ハイリゲンシュタット]]の駅前にある。ドナウ運河近くの鉄道に沿った複数の街区にまたがり、全長1.2kmに及ぶ巨大な建造物である<ref>松葉、p100。</ref>。「赤いウィーン」の記念碑的作品と言われ、戸数は1382、中庭を囲む形式の集合住宅である<ref>大川他、p196-197。</ref>。
 
駅に面した中央部分の[[ファサード]]は4つのアーチとその上に立つ塔が特徴的で、表現主義的と評される。アーチをくぐった先は公園になっている。公園側のアーチ頂部には4つの彫刻が置かれており、それぞれ衛生・解放・教育・福祉を表している<ref>松葉、p101-103。田口、p216-217(身体文化・自由・啓蒙・福祉)。</ref>。各住戸は平均50㎡ほどで狭いが、敷地内に共同の浴場、洗濯場、保育園、スポーツ場などがある<ref>松葉、p95、104。田口、p216-217。</ref>。