「ルジェフ」の版間の差分

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ルジェフはこの地方でも[[トロペツ]]と並んで古い都市であり、ルジェフは歴史記録([[ノヴゴロド]]法)への初出を[[1019年]]であると主張する一方、トロペツ側はルジェフの名がはっきりと記録に登場するのは、有名な[[トロペツ公]]で[[アレクサンドル・ネフスキー]]の祖父でもある[[ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ|ムスティスラフ・ムスティスラヴィチ]]がルジェフを領地としていた時代([[1216年]])にすぎないと主張する。どちらにせよ、中世のルジェフは[[ノヴゴロド公国]]、[[スモレンスク公国]]、[[ウラジーミル・スーズダリ大公国]]という三大国の争奪する土地として重要だった。
 
[[モンゴルのルーシ侵攻|モンゴルの襲来]]の後、ルジェフはスモレンスク公の傍系の家系に譲られ([[ルジェフ公国]])、その都となった。[[ルジェフ公]]は後に町を二分した。現在でもルジェフの町は「ドミトリー公側」と「フョードル公側」と呼ばれている。[[14世紀]]半ば、ルジェフは西の[[リトアニア大公国]]と東の[[トヴェリ]]大公国の両方から何度も攻められ、ルジェフ公らは周囲の村をすべて失った。最後には公らはモスクワへ逃れた。その子孫であるルジェフスキー家はロシアのアネクドートでよく取り上げられる滑稽なキャラクターとなっている。ルジェフは一時トヴェリ領となったものの、後に[[ポーランド・リトアニア共和国]]に占領され、最終的に[[モスクワ大公国]]の領地となった。
 
[[18世紀]]には主に[[古儀式派]]の信者である地元の商人たちが町の不動産のほとんどを買い取った。彼らは後に[[ロシア革命]]が起こると攻撃の的となった。[[第二次世界大戦]]では、[[1942年]]、モスクワ近郊へ追いつめられた赤軍がドイツ軍に対して反攻に出、ルジェフと[[ヴャジマ]]へ向かって進軍を始めた([[ルジェフの戦い]])。この戦いでルジェフ付近のみを残してソ連軍が前線を西へ押し返し、さらにルジェフに残ったドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた([[第二次ルジェフ会戦]])。激しい戦いでルジェフの建物は全て消滅した。大戦中、市の人口の6分の1以上が[[ドイツ]]に送られ強制労働をさせられ、その他の市民のうち9,000人は射殺されたり拷問を受けたり市の中心に設けられた収容所で飢えたりして死んでいった。これらの戦いのため、古い建物は何も残っていない。