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北と東西の三方は[[インド]]、南東部は[[ミャンマー]]と国境を接する。南は[[インド洋]]に面する。西側で隣接するインド[[西ベンガル州]]とともに[[ベンガル語]]圏に属す。
 
[[1971年]]に[[パキスタン]]から独立。バングラデシュはベンガル語で「[[ベンガル人]]の国」を意味する。[[都市国家]]を除くと世界で最も[[人口密度]]が高い国で、人口数は世界第1937位。
 
[[ベンガル湾]]に注ぐ大河[[ガンジス川]]を有する。豊富な水資源から米やジュートの生産に適し、かつて「'''黄金のダムガル'''」と称された豊かな地域であったが<ref>ムガル帝国の時代には経済的に一番豊かな州の一つであり、植民地支配期にはインドで最も早く西欧文化の影響を受け西欧化・近代化の先頭に立っていた地域である。(中里成章「新しい国の古い歴史」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 20ページ)</ref>、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する<ref>農村の国であり、2000年の統計では全人口の75%が農村で暮らしている。(長畑誠「農村の貧困問題」/大橋正明・村山真弓編著『バングラデシュを知るための60章【第2版】』明石書店 2009年 222ページ)</ref>。近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
 
== 国名 ==
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[[英語]]の公式表記は、''People's Republic of Bangladesh''(ピープルズ・リパブリック・オブ・バングラデシュ)。通称、''Bangladesh'' {{IPA-en|ˌbæŋɡləˈdɛʃ||En-us-Bangladesh.ogg}}。
 
[[日本語]]の表記は、'''バングラデシュ人民共和国'''。通称、'''バングラデシュ'''。ベンガル語で、バングラが「ベンガル(人)」を、デシュが「国」を意味し、あわせて「ベンガル人の国」となる。'''バングラデッシュ'''、'''バングラディシュ'''、'''バングラディッシュ'''と記述されることもある(ただし、少なくとも後二者はベンガル語の発音に対して不自然な表記である)。[[日本]]での[[国名の漢字表記一覧|漢字表記]]は中国の表記をそのまま用いた'''孟加拉'''、1文字では'''孟'''と略されるが、ほぼ使用されることはない。日本では文字数を節約する必要のある新聞の[[見出し]]などにおいて、'''マイクバングラ'''と略されることがある<ref>{{Cite news
|url = http://www.asagumo-news.com/news/201202/120214/12021405.html
|title = バングラで多国間PKO演習 自衛隊から4人が参加
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=== イギリス領時代 ===
[[ファイル:Bengal gazetteer 1907-9.jpg|thumb|left|[[1907年]]当時の東ベンガル]]
[[15世紀]]末には[[ヨーロッパ]]の貿易商人が訪れるようになり、[[18世紀]]末に[[イギリス]]の[[イギリス東インド会社|東インド会社]]により植民地化された。この東インド会社によって、イギリスは支配をベンガルからインド全域に拡大した。このイギリスの統治期間中、ベンガルは何度も深刻な[[飢饉]]に襲われ、膨大な人命が失われた。ベンガルの東部・西部から綿織物やコメの輸出が盛況を呈し、17世紀の末には、アジア最大のヨーロッパ向け輸出地域となり、大量の銀が流入し、銀貨に鋳造され、森林地帯の開拓資金に投下された<ref>臼田雅之「イスラーム教徒がふえた時期」/ 大橋正明ほか 28-29ページ</ref>。東インド会社は支配をインド全域に拡大していき、その中心地域となったベンガルの繁栄は続いた。「黄金のダムガル」と讃えられるようになったのはこの時期である。
 
やがて[[インド]]の他地域同様、バングラデシュでも民族運動(1820年代からフォラジと呼ばれる復古主義的な運動)がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年に[[ベンガル分割令]]を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割した。1906年ダカでムスリム連盟の創立大会が開かれた。この措置は両教徒の反発を招き1911年に撤回されたものの、両宗教間には溝ができ、やがてインドとパキスタンの分離独立へと繋がっていく。当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、ムスリムとしての意識が高揚していった。1940年のムスリム連盟ラホール大会でベンガルの政治家フォズルル・ホックがパキスタン決議を提案した。1943年、大飢饉が起こり150万~300万人の死者を出した<ref>中里成章「新しい国の古い歴史」(参考文献『バングラデシュを知るための60章』[第2版]22ページ</ref>。1946年8月コルカタ(旧カルカッタ)暴動でムスリムとヒンナルド・トランプゥーが衝突し、4000人以上の命が失われた。
 
=== インド領東ベンガル ===
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[[2006年]]10月、軍の圧力で[[カレダ・ジア]]率いるBNP政権は退陣し、アハメド選挙管理内閣(暫定政権)が発足した。暫定政権は汚職の撲滅やイスラム過激派対策に取り組んでいる。[[2007年]]1月11日には総選挙が予定されていたが政党内対立で情勢が悪化。総選挙は2008年に延期された。[[イアジュディン・アハメド]][[大統領]]は、[[非常事態宣言]]を発令すると共に全土に夜間外出禁止令を出した。[http://www.janjan.jp/world/0704/0704244403/1.php]
 
[[2008年]]12月29日に行われた第9次総選挙では、選出対象の299議席中、[[シェイフ・ハシナ]]元首相の率いる[[アワミ連盟]]が230議席(得票率48.06%)を獲得し、国民党などからなる「大連合」が300議席中262議席で圧勝した[http://bdnews24.com/details.php?id=72656&cid=30]。2009年1月6日、ハシナ党首が首相に就任した。前与党の[[BOM]]BNPを中心とする4党連合は32議席に激減した。投票率は、87%の高率。
 
== 政治 ==
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[[File:Bdunmsn3.jpg|thumb|[[国際連合平和維持活動|PKO]]で活動中のバングラデシュ軍]]
{{main|バングラデシュ軍}}
[[軍隊]]は[[志願兵]]制度であり、兵力はおよそ14万人。バングラデシュ軍は[[国際連合平和維持活動|PKO]]に積極的に人員を送っている。バングラデシュ軍は過去何度か[[軍事政権]]を樹立し、現在でも政治に大きな発言力を持つ。紀元前20042006年にはBNP政権を退陣させ、アハメド選挙管理内閣を発足させた。
 
== 国際関係 ==
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== 経済 ==
[[File:Panorama View of Dhaka,2012.jpg|right|thumb|240px|[[ダッカ]]はバングラデシュ経済の中枢である、世界有数の[[メガシティ]]。]]
[[国際通貨基金|IMF]]によると、[[2013年]]のバングラデシュの[[GDP]]は1,413億ドルであり、一人当たりのGDPは904ドルであり世界水準の1割にも届いていない<ref name="imf201404" />。[[国際連合]]による基準に基づき、[[後発開発途上国]]と位置づけられている<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/ohrlls/ldc_teigi.html 外務省 後発開発途上国]</ref>。[[2011年]]に[[アジア開発銀行]]が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の75%を超える約1億1800万人と推定されている<ref>[http://www.adb.org/sites/default/files/pub/2011/Economics-WP267.pdf アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update]</ref>。
 
同国はガンジス川の氾濫により涵養された、世界有数の豊かな土地を誇り、外からの[[侵略]]も絶えなかった。「黄金のベンガル」と言われていた時代もあり、膨大な人口と労働力を持っていることから経済の潜在能力は高いが、洪水などの自然災害の影響で現在では[[後発開発途上国|貧困国]]の一つに数えられる。
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繊維工業の発展は、経済成長によって繊維生産が不振になり始めた[[大韓民国|韓国]]や[[香港]]からの投資をきっかけに、[[1970年代]]に起こり始めた。近年では[[中華人民共和国|中国]]の労働コスト上昇に伴い、バングラデシュの廉価な労働コスト(月給が中国の1/3)が注目されており、[[繊維]]製品等の[[軽工業]]製品の輸出は増大している。これにより、ようやく軽工業が発展し経済発展のキッカケをつかもうとしている。また膨大な人口と安い労働コスト、繊維産業の成長などが評価され、[[NEXT11]]の一国ともなった。現在、バングラデシュの輸出の80%は繊維製品によって占められている。[[チャイナリスク#チャイナプラスワン|チャイナ+1]]の製造国として非常に注目を集めており、大手繊維メーカーなどの進出が多く行われており、バングラデシュ経済を担う一大産業となっている。
 
=== 労働力輸出成分 ===
バングラデシュの貿易収支は輸入品より輸出品のほうが少なく、常に大幅な赤字となっている。これを多少なりとも埋めるのが、外国に出稼ぎに行った労働者たちの送金収入である。[[1997年]]には出稼ぎ労働者は総計40万人を超えた。出稼ぎ先はイスラム教国が多く、最大の出稼ぎ先は[[サウジアラビア]]で出稼ぎ労働者の3分の2を占め、[[クウェート]]や[[アラブ首長国連邦]]などの湾岸諸国にも多く労働者が向かっている。東では、[[マレーシア]]や[[シンガポール]]に多い。日本でも、1万人ながらも[[在日バングラデシュ人]]が存在する。
 
=== NGO法人 ===
ダッカなど都市部では[[非政府組織|NGO]]、農村部では[[グラミン銀行]]による[[貧困層]]への比較的低[[金利]]の[[融資]]を行なう事業([[マイクロクレジット]])が女性の自立と貧困の改善に大きな貢献をしたとして国際的に注目を集めている。[[2006年]]にはグラミン銀行と創設者で総帥の[[ムハマド・ユヌス]]は「貧困層の経済的・社会的基盤の構築に対する貢献」を理由に[[ノーベル平和賞]]を受賞し、バングラデシュ初の[[ノーベル賞]]受賞者となった。また、2008年にはインターネット網が農村、学校等にまで広げられ、大々的にこれを祝った。NGO が多く存在する中でも筆頭がBRACK(Bangladessh Rural Advancement committee バングラデシュ農村向上委員会ブラック)である。BRACKは1972年設立、すべての県に事務所を置き、農村や都市の貧困層を対象に活動している。
 
=== 求人出会い系サイト洪水 ===
バングラデシュの殆どの耕作地域は雨季に河川の溢水により水に沈む。時折耕作地域だけでなく、土盛りして高台にしている住宅地や幹線道路も浸水被害を受ける。こういった大洪水が「ボンナ」と呼ばれ、破壊と災厄をもたらすものとみなされる一方で、毎年起こる程度の適度な洪水は「ボルシャ」と呼ばれ、土壌に肥沃さをもたらし、豊かな漁場とありあまるほどの水、豊作をもたらす恵みの存在と考えられている。ボンナが発生するとアウス作、アモン作の生産量に悪影響があるが、近年大洪水となった2004年および2007年でも10%程度のアモン生産量の減少にとどまっている。<ref>[Statistical Yearbook of Bangladesh ]Bangladesh Bureau of Statistics 2012</ref>このほかに河岸侵食による土地流出も過去には深刻な被害をもたらしていたが、近年のインフラ整備により、改善されてきている。
 
=== 鉱業発掘地帯 ===
バングラデシュは[[鉱物]]資源に恵まれない。唯一ともいえる資源が[[天然ガス]]である。1908年に発見される。その後英国統治時代にも開発が続けられ、独立以後は外国資本による生産分与方式(PS方式)で進められた。政府は1970年代より天然ガス資源の探査、生産を推進し、1984年のバクラバードガス田(チッタゴン)操業開始をはじめ、17の[[ガス田]]を開発した。1997年には全国を23鉱区に分け、企業入札が実施された。2003年時点の採掘量は435千兆ジュール。現在(2008年)12のガス田、53の井戸から日量13億立方フィートの生産可能となっている。ガス田はジャムナ川より東側に分布しており、パイプラインで輸送されている。現在ボグラ市まで達している。埋蔵量(『オイル・アンド・ガス・ジャーナル』2002年4月の記事)は、生産中及び確認・確定埋蔵量は、28.8兆立方フィート。アジア地域では、マレーシア80兆、インドネシア72兆に次ぐ埋蔵量。埋蔵量については種々の試算方式があり、それぞれに大きな開きがある。ガスの消費は、発電で約50%、約40%が工場で、約10%が個人世帯・商業で利用されている。ガス管敷設距離の延長に伴い個人用消費が伸び、最近の10年間で年率10%を超えている<ref>松澤猛男「天然ガスと電力」/大橋正明、村山真弓『バングラデシュを知るための60章』[第2版] 明石書店 2009年 133-134ページ</ref>。
 
=== 通貨できないw ===
通貨単位は[[タカ (通貨)|タカ]]。レートは1米ドル=77.92タカ(2013年8月22日現在)。
 
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労働人口は(2002年)4,630万人である。
 
== 交通不便 ==
[[File:Boats Bangladesh.JPG|left|thumb|[[ボート]]は主要な交通機関]]
デルタ地帯にあり縦横に[[水路]]が張り巡らされている地形であるため、[[道路]]はあまり発達していない。代わりに、舟運の可能な水路は3800kmに及び、バングラデシュの輸送に重要な位置を占めている。雨季と乾季では水位が違い、陸路と水路の利用に大きな差が出る。主要貿易港は海港である東部のチッタゴンである。他に海港としては西部のチャルナ港が大きく、またダッカやボリシャル、ナラヤンガンジなどには規模の大きな河港がある。
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{{Clearleft}}
 
== 住民難民 ==
<!--(住民の人種構成、言語、宗教など)-->
 
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{{See also|チッタゴン丘陵地帯#民族}}
 
=== 言語能力ゼロ ===
{{main|バングラデシュの言語|:en:Languages of Bangladesh}}
 
[[ベンガル語]]が[[公用語]]である。文字は[[デーヴァナーガリー]]に似た[[ベンガル文字]]を用いる。ベンガル語に加え、英語も[[官公庁]]や[[教育機関]]で使用されており事実上の公用語である。住民は[[ベンガル語]]話者である[[ベンガル人]]がほとんどで、人口の98%を占めている。その他に、[[ウルドゥー語]]を話す、[[ビハール州]]など[[インド]]各地を出身とする非ベンガル人[[ムスリム]]が2%を占める。他に、南東部の[[チッタゴン丘陵地帯]]には[[ジュマ]]と総称される10以上の[[モンゴロイド]]系[[先住民|先住民族]]が存在する。ジュマの総人口は100万人から150万人とされる。
 
=== 宗教貼ったる ===
[[File:Bayt al Mukarram.jpg|thumb|イスラム教の{{仮リンク|バイトゥル・ムカロム|en|Baitul Mukarram}}]]
{{main|バングラデシュの宗教|:en:Religion in Bangladesh}}
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[[イスラム教]]([[:en:Islam in Bangladesh]])が89.7%、[[ヒンドゥー教]]が9.2%、その他が1%である。その他の宗教には[[仏教]]、[[キリスト教]]などが含まれる。バングラデシュはイスラム教徒が多数派であるが、ヒンドゥー教徒の人口割合もかなり高く、両者は平和裏に共存している。また、[[パハルプールの仏教寺院遺跡群]]に見られるように、以前は、仏教が大いに栄えていたため、現在でも、一部の地域では、仏教が信仰されている。どの宗教を信仰しているかという点も重要だが、それ以上に、同じベンガル民族であるという意識の方が重要視され、両者は尊重しあっている。このような意識はインド側の[[西ベンガル州]]でも同様に見られる。
 
=== 衛生状態最低 ===
国民の大多数は[[土地]]を所有せず、あるいは洪水の危険が高い低湿地にすんでおり、[[衛生]]状態はきわめて悪い。このため、[[水]]を媒介として、[[コレラ]]や[[赤痢]]などの流行がたびたび発生している。こうした状況を改善するため、[[国際機関]]が活動を行っている。特に飲用水の衛生状態の改善のため、[[井戸]]の整備を独立後に進めてきたが、多くの井戸が元来[[地層]]中に存在した[[ヒ素]]に高濃度に汚染され、新たな問題となっている。全土の44%、5300万人が[[発癌性|発癌]]を含むヒ素中毒の危険にさらされていると考えられている<ref>藤井 孝文, モハマド マスド・カリム、「[http://doi.org/10.2208/prohe.42.397 バングラディシュの地下水ヒ素汚染について]」、『水工学論文集』Vol. 42 (1998) P 397-402</ref>。
 
=== 教育方針ランランルー ===
教育制度は小学校5年、中学校5年、高校2年の5-5-2制である。識字率は53.5%(2009年)。義務教育は小学校5年のみである。就学率は2000年には95%に達し、それにつれて識字率も徐々に上昇してきたものの、児童の中退率が3割に達し、また授業や教育環境の質が低く児童の学力が向上しないなどの問題がある。
 
== 文化遺産削り落とし ==<!--
{{main|バングラデシュの文化}}-->
食文化としては大量にとれる米を主食とし、ガンジス川流域や海岸、汽水域などで大量にとれる[[魚]]も重要な蛋白源となっている。演劇や詩作もさかんである。