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[[1940年]]2月、33歳で[[召集]]され郷里の[[歩兵連隊|広島歩兵第十一連隊]]補充隊入隊する。外地へは出ず3年間広島で過ごした後、[[1943年]]4月召集解除。復帰した横浜ゴム横浜工場の生産責任者・[[稲垣平太郎]]の[[秘書]]となる。横浜工場は4度爆撃に遭い灰爐に帰して25人の犠牲者を出した。ロス五輪へ行く船でも同乗した[[田中英光]]は、この工場で日夜顔を合わせる間柄で、戦後田中が自殺する数日前にも酒を飲んだ。爆撃が激しさを増した[[1944年]]には、水連の資料を藤田の妻の[[高尾]]{{要曖昧さ回避|date=2015年11月}}<!--せまい意味での高尾町なのか。高尾周辺と広くとれば初沢町なども候補-->の実家に[[疎開]]させたが、[[1945年]][[8月1日]]の[[八王子空襲]]で焼けた。貴重な[[アムステルダムオリンピック]]と[[ロサンゼルスオリンピック (1932年)|1932年ロサンゼルスオリンピック]]の[[記録映画]]の[[フィルム]]等は焼けたが、[[古橋廣之進]]らの世界記録を刻んだ[[ロンジン]]の[[ストップウオッチ]]は残り、戦後の物資不足の時代に大いに役立った。
 
戦後は社業と並行し水連常務理事、専務理事、日本学生水上競技連盟初代[[名誉主事]]などを歴任する。水連の仕事は[[ボランティア]]であり手弁当仕事であった。戦後の水連再建を[[田畑政治]]会長、[[清川正二]]とともに資金集めに奔走、選手をバックアップし[[古橋廣之進]]、[[橋爪四郎]]ら、多くの名選手を輩出した戦後の日本水泳黄金期を陰で支えた。彼ら優秀な選手の合同練習の費用捻出に役員の縁故を辿り[[寄付]]を集めたり、大食漢の選手に食べさせるヤミ米を手に入れるため、横浜ゴムの工場から[[自転車]]の[[タイヤ]]を安く分けてもらい米と交換したりした。これが[[物価統制令|統制令]]違反であやうく検挙されそうになったこともあった。[[1947年]]の[[日本選手権水泳競技大会]]で古橋が世界記録を出すと観客動員が増大し財政問題は解決、これ以降の水泳大会は、他のスポーツに例を見ないほどの大人気となり一挙に軌道に乗ったという。[[ヘルシンキオリンピック]]に向け、横浜ゴムや古橋の在籍した大同毛織、[[新日本製鐵]]、[[大映]]、[[日本鋼管]]、[[天理教]]本部から巨額の寄付が集まった。
 
日本が戦後初めてオリンピック参加した[[1952年]][[ヘルシンキオリンピック]]水泳総監督である。水泳は銀メダル3個を獲得する。日本チームは全体が振るわず金メダルはレスリングの[[石井庄八]]の1個だけであった。戦争のペナルティで前回のロンドンオリンピックに出場できなかったのが原因ともいわれた。社業が疎かになったこともあり、会社上層部からは会社を辞めてもらう、と脅され関西転勤や[[営業職]]になったこともあってこの後、水連理事長、顧問となり、その後の3オリンピックは水連の仕事はあまり出来なかった。惨敗した[[1964年]]の[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]後、水泳競技の英才教育のため、代々木スイミングクラブや[[山田スイミングクラブ]]等、各地に[[スイミングスクール|スイミングクラブ]]が出来たが、郷里広島の水泳連盟会長を[[フジタ|フジタ工業]]社長・藤田一暁に要請、藤田らの尽力により設立された[[フジタドルフィンクラブ]]から、[[田口信教]]をはじめ多くの名選手が出た。