「島津忠国」の版間の差分

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[[1425年]]、父・久豊が没したため家督を継ぐ。[[日向国]]の[[伊東氏]]と和睦をし、平穏な日々が続いていたが、国人一揆が多発したため忠国は弟の[[島津好久]]を守護代に任じてその処理をさせた。しかし、好久が力を持ちすぎたことにより、兄弟間の争いが始まったが、忠国・好久の争いは謀反を企てた6代将軍[[足利義教]]の弟・[[大覚寺義昭]]を幕命により[[1441年]]3月13日に自害させたのを機に忠国が有利となって終息した。
 
和解後、好久に分家の[[薩州家]]を立てさせた。その後は一族の中で一番力のある[[伊集院氏]]を滅ぼし、国内支配を安定させた。死ぬまで家督を保ち続け、1470年に没した。享年68。墓は坊津(現[[鹿児島県]][[南さつま市]])にある。晩年は[[琉球]]への渡海を画策していたとされる。

その跡は、嫡男の[[島津立久]]が継いだ。
 
==外部リンク==
*[http://www3.synapse.ne.jp/hantoubunka/ph/tadakuni1.htm 島津忠国の墓]
 
{{先代次代|[[島津氏|島津氏歴代当主]]|1425~1470|[[島津久豊]]|[[島津立久]]}}