「尚真王」の版間の差分

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また[[地方制度]]を改革し、現在の市町村に相当する地域を[[間切]]、字に相当する地域を[[シマ]]とした。
 
また[[神女]]を[[聞得大君]]の元に組織化し、各地の[[ノロ]]をその統制下においた。初代の聞得大君には王の妹、月清が就任する。妹の霊力で政治を行う兄を守護するという[[おなり神]]信仰であるが、同時に神祗面での中央集権化である
 
さらに、[[中央官庁]]には王を補佐する[[三司官]](世あすたべ)を置いた。
 
[[1500年]]([[弘治 (明)|弘治]]13年)には八重山諸島で起きた[[オヤケアカハチの乱]]を平定し、さらに[[1522年]](嘉靖元年)には[[与那国島]]を征服し、版図を拡大した。宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至った。
 
[[1509年]]に[[首里城]]正殿の欄干に設置された碑文「[[百浦添欄干之銘]]」には尚真王の事跡として11項目が列挙されている。<ref>新城俊昭「琉球・沖縄史」東洋企画</ref>
 
==仏教の興隆==