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[[紀元前245年]]、廉頗は[[魏 (戦国)|魏]]に侵攻して繁陽(現在の河北省[[内黄県]])の城を攻め落とした。だが直後に[[孝成王 (趙)|孝成王]]が崩御して[[悼襄王 (趙)|悼襄王]]が即位すると、廉頗は悼襄王によって将軍職を罷免させられた<ref>悼襄王が太子の頃から不仲で対立していたためという</ref>。その事を恨んで後任の将軍の[[楽乗]]を攻撃して撃破する。これにより廉頗は趙に居られなくなり魏の[[大梁]](現在の[[河南省]][[開封市]]西北)へ亡命する。楽乗もまた他国へ亡命してしまう。だが、魏では信任されなかったために大軍を率いる事は無かった。
 
廉頗のいなくなった趙は、嬴政([[始皇帝]])の下でさらなる強国になろうとしていた秦の格好の標的とされた。そのため趙は廉頗のもとに使者を送って帰参を許そうと図る。廉頗は年老いても「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」<ref>『史記』</ref>といわれるほどに元気な姿を使者に見せて帰参を承知した。だが廉頗が趙にいた頃から不仲だった[[奸臣]]である[[郭開]]の謀略で使者が買収されてしまう。そして趙王が廉頗の様子を伺うと、使者は「三度遺」<ref>「使者と会談中に3度も小用に立った」「使者と会談中に3度も失禁し、しかも気づかなかった」の意であり、どちらの意かは諸説ある</ref>と讒言した。このため趙王は廉頗が高齢で使いものにならないとして諦めたという。
 
廉頗は後に[[楚 (春秋)|楚]]に亡命し、将軍に任命されるも功を立てることはなく寿春で病没した。