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Satokimu (会話 | 投稿記録)
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| 国籍 = {{ITA}}
| 活動時期 = 1980 - 1995
| 所属チーム = [[ランチア]]、[[フォード・モーター|フォード]]
| 出走回数 = 78
| チャンピオン回数 = 2 (1988、1989)
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[[1989年の世界ラリー選手権|1989年]]も[[トヨタ・モータースポーツ|トヨタ]]との争いが激しくなる中、地元[[ラリー・サンレモ|サンレモ]]から投入されたニューマシン、デルタHFインテグラーレ16Vを操り、この年、トヨタに移籍した新鋭、[[カルロス・サインツ]]を見事に破って勝利を飾るとその年のタイトルも獲得した。
 
[[1990年の世界ラリー選手権|1990年]]にフランスの新人、[[ディディエ・オリオール]]や[[ユハ・カンクネン]]らのランチア加入により、以前のような速さでラリーを圧倒することはなくなったものの、ミキは巧みなラリー運びでその後も勝利を挙げていく。だが、チーム代表がレーシング畑のジョルジョ・ピアンタに代わると、チーム首脳との関係が悪化。これによって、[[1992年の世界ラリー選手権|1992年]]は長年在籍したランチアを離れ、[[フォード・モーター|フォード]]に移籍する。しかし、[[フランス]]の若手、[[フランソワ・デルクール]]を中心としたチーム運営に加え、チーフ・エンジニアのフィリップ・ドゥナビンを始め、役所体質と言われた独特のチーム運営がミキのフラストレーションを高め、なかなか思うような成績を出せなくなり、終いにはチームの組織編成に伴いマシン開発も満足に出来ない状況に陥り、結果、フォード時代にあげた勝利は[[1993年の世界ラリー選手権|1993年]]の[[アクロポリス・ラリー|アクロポリス]]のみにとどまる。
 
[[1995年の世界ラリー選手権|1995年]]、フォードが[[ベルギー]]のプライベート・チーム、RASスポールにワークス参戦委託を表明すると、RASの生え抜きであった[[ブルーノ・ティリー]]に押し出される形でチームを離脱。これが実質的なWRC引退となってしまった。