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[[1950年代]]から[[1970年代]]前期まで、年間完投数のリーグ合計は、[[パシフィック・リーグ]]、[[セントラル・リーグ]]ともに200 - 300完投の間で安定的に推移していた。1970年代中期ごろからセントラルリーグのみ完投数が減少し始め、年間200完投を超えることがなくなっていった。1980年代に入ってもセントラルリーグの完投減少傾向に変化はなく、毎年150 - 200完投前後で推移していた。一方パシフィックリーグでは以前と変わらずに年間200完投以上が記録され続けており、パ・セ間の完投をめぐる状況は大きな差異を見せていた。
 
パ・セ間で完投数に大きな差が出た背景として、[[1975年]]からパシフィックリーグで[[指名打者]]制度が導入されたことがしばしば挙げられる(指名打者制度では通常、投手は打席に立たないので代打を送られることによる交代はない)。しかし、セントラルリーグにおいて完投数が減少した原因については必ずしも明らかとはなっていない。ただ、1974年に巨人の連覇をとめた中日ドラゴンズが、当時の[[近藤貞雄]]投手コーチによる分業論を採用し、[[星野仙一]]や[[鈴木孝政]]らの有力なリリーフ投手を擁していたことが影響しているという説がある。
 
完投主義の最後の光芒と呼べるのが[[桑田真澄]]、[[斎藤雅樹]]、[[槙原寛己]]の「三本柱」を擁していた1989年・1990年の巨人である。両年とも巨人がリーグ優勝を果たしているが、これは[[藤田元司]]監督の先発完投主義によるもので、1990年にはチームで70完投を記録している。