「ティントレット」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[ヴェネツィア]]の染物屋であるジョヴァンニ・バティスタ・ロブスティ(本名ジョヴァンニ・バティスタ・コミン)の息子として生まれたため、「ティントレット(染物屋の息子)」と呼ばれている<ref name=p118masterofvenice>[[#Ferino-Padgen, Orr, 2011-11-15|Ferino-Padgen, Orr, 2011]], p 118.</ref>。画家、文筆家で1642年にティントレットの生涯を出版した[[カルロ・リドルフィ]]によると、父親によりティントレットはティツィアーノの門下となった<ref name=p118masterofvenice />。師の影響は《聖パウロの改心》(ワシントン、ナショナル・ギャラリー)や《「この人を見よ」''Ecce homo''》(サンパウロ美術館)に認められる。しかしそれは長く続かず、ティントレットはティツィアーノに画家としての熟達を承認した署名を与えられ、工房を出ることとなった<ref name=p118masterofvenice />。[[1539年]]の文書によると、ティントレットはマエストロを自称しており、その頃から独立した画家としての活動が示唆されている<ref name=p118masterofvenice />。1540年頃のティントレットの作品は、彼が当時のヴェネツィア芸術に精通していたことを示しており、[[ジュリオ・ロマーノ]]、[[アンドレア・スキャヴォーネ]]、フィレンツェの建築家らの作品の研究を経て、自身の作品を研鑽していた。その後は古代の彫刻などを手本に修行を続けたとされている。リドルフィによると、ティントレットは{{仮リンク|サン・ロレンツォ教会|it|Sagrestia Nuova}}の[[ミケランジェロ]]の彫刻のように、古代の大理石の石膏の色合いの修得に挑戦した<ref name=p118masterofvenice />。しかし、それはティツィアーノの作品の影響を忘れたわけではなかった<ref name=p118masterofvenice />。
[[file:Madonna dell'Orto (Venice) - Tintoretto's tombe.jpg|thumb|彼の墓]]
1548年、《聖マルコによる奴隷の解放》をサン・ロッコ同信組合から依頼された。それを皮切りに、ティントレットは公的な仕事を引き受けるようになる<ref name=p118119masterofvenice>[[#Ferino-Padgen, Orr, 2011-11-15|Ferino-Padgen, Orr, 2011]], pp. 118-119.</ref>。ヴェネツィアでのスクォーラは宗教的組合で、地方の役人によって管理されていた。中世に組合員への物的及び精神的支援を目的として設立され、16世紀中頃には[[トリエント公会議]]の影響で急激に広がった<ref name=p119masterofvenice>[[#Ferino-Padgen, Orr, 2011-11-15|Ferino-Padgen, Orr, 2011]], p119.</ref>。ティントレットは{{仮リンク|聖マルコ同信会館|en|Scuola Grande di San Marco}}とさらに後にはサンロッコ同信会館で作品制作を行った。そこでティントレットは彼の作品に対する観衆と宗教的方式に対する対話者を得た<ref name=p119masterofvenice />。
 
ティントレットは横溢する才能の持ち主だった。とりわけ早描きで知られ、聖ロクス兄弟会のために作品を制作した際には、他の画家が素描を仕上げる間にすでにタブローを完成してしまった。またその才能を揮う機会を貪欲に求め、ついにはスキアヴォーネなどの同業者たちの仕事をなんら報酬を求めることもなく手伝ったとも伝えられている<ref>これらの逸話に関しては次の資料を参照。A.J. Dézallier d'Argenville, ''Abrégé de la vie des plus fameux peintres,'' Paris, De Bure, 1745, p. 167.</ref>。