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動物の生きた[[細胞]]を実験室で[[培養]]する[[細胞培養]](あるいは[[組織培養]])の技術は、[[19世紀]]の[[シドニー・リンガー]]による[[カエル]][[心臓]]の培養、[[1885年]][[ヴィルヘルム・ルー]]のニワトリ胚神経節の培養などの[[組織 (生物学)|組織]]レベルからはじまった。その後、[[1907年]]には[[ロス・ハリソン]]のカエル[[神経細胞]]の培養に成功したことで、細胞レベルで行われるようになり、[[ハツカネズミ|マウス]]などの[[哺乳類]]を含め、さまざまな動物の細胞が培養されるようになった。しかしヒト由来の細胞を安定に、数週間程度培養しつづけることには、多くの研究者が挑戦したにもかかわらず、ハリソンの実験以降の約50年間、誰も成功しなかった。
 
ジョージ・ゲイは、[[1940年]]にウィルトン・アール (Wilton Earle) とともに世界初の[[培養細胞|株化細胞]](安定して増殖を繰り返す細胞)であるL細胞をマウスから作製することに成功した、当時の細胞培養研究の第一人者であった。彼もまた、ヒト細胞の培養に挑戦していたが、1951年2月8日、勤務していた{{仮リンク|[[ジョンズ・ホプキンス病院|en|Johns Hopkins Hospital}}]]で1つの小さな病理切片を入手した。子宮頸癌で診察を受けた、[[ヘンリエッタ・ラックス]]のものであった。彼は、この切片から世界初となるヒト細胞株の培養に成功し、彼女の名からアルファベット2文字ずつを取って、HeLa細胞と名付けて発表した。
 
この細胞は、患者であるヘンリエッタ・ラックスに断りなく培養されたものであった。1950年代当時には、切除された組織や外科手術、治療・診断中に得られた材料は医師及び(または)医療研究所のものであると考えられていたので、患者やその家族に対して説明し、同意を得る必要がなかったからである。このため、最初その細胞株は、ラックスの名前を隠すため、「ヘレン・レーン」あるいは「ヘレン・ラーソン」にちなんで命名されたとされていた。ヘンリエッタ・ラックスは1951年10月4日に子宮頸癌でこの世を去ったが、彼女の子供がこの細胞のことを偶然知ったのは、20年以上経ってからのことであった。この間にも、HeLa細胞はさまざまな実験室で用いられ、また商業的にも扱われていたが、その利益の一部を彼女の家族が受けることもなかった。この問題は、後に[[w:en:John Moore v. the Regents of the University of California|ジョン・ムーア対カリフォルニア大学の指導教授の訴訟 (en) ]]がカリフォルニア州最高裁判所に提訴された際の参考事例となり、法廷は摘出された組織、細胞はその人のものではなく商業的に扱って構わないと裁定した。