「丸山眞男」の版間の差分

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前記の時論的な論述のほか、日本政治思想史における業績も重要である。[[第二次世界大戦]]中に執筆した『日本政治思想史研究』は、[[ヘーゲル]]<ref>ヘーゲル『[[歴史哲学]]』など</ref>や[[フランツ・ボルケナウ]]<ref>フランツ・ボルケナウ『封建的世界像から近代的世界像へ』みすず書房</ref>らの研究を日本近世に応用し、「自然」-「作為」のカテゴリー<ref>または、「成る」 - 「為す」。これらは、丸山が、[[テンニース]]の[[共同体#ゲマインシャフトとゲゼルシャフト|ゲマインシャフトとゲゼルシャフト]]の対概念にヒントを得たもの。</ref> を用いて[[儒教]]思想([[朱子学]])から[[荻生徂徠]]・[[本居宣長]]らの「近代的思惟」が育ってきた過程を描いたものである。
 
また、明治時代の思想はデモクラシー(民権)とナショナリズム(国権)が健全な形でバランスを保っていたと評価し{{要出典|date=2016年12月}}、特に日本近代を代表する[[思想家]]として[[福澤諭吉]]を高く評価し、「福澤惚れ」を自認した。[[日本学士院]]ではもっぱら福沢の研究を行い、日本思想史研究における生涯の大半を福沢の研究に費やした。丸山の『福沢諭吉論』はそれ以降の思想史研究家にとって、現在まで見過ごすことのできない金字塔的な存在となっている。
 
『日本の思想』(岩波新書、1961)の発行部数は[[2005年]](平成17年)5月現在、累計102万部。大学教員達から“学生必読の書”と評される他{{要出典|date=2016年12月}}、この中に収められている『[[「である」ことと「する」こと]]』は高校の現代文の教科書にも採用されている<ref>元は1958年10月「岩波文化講演会」で、改稿し『毎日新聞』1959年1月9日-12日に掲載。これは『日本政治思想史研究』で論述した「自然」-「作為」の概念を平易に記述したものともいえる。「[[権利]]の上に眠る者」というキーワードを理解し、[[「である」ことと「する」こと]]といった、[[近代]]社会における「権利」や「[[自由]]」について考え、二項対立の思考形式による論理展開{{要出典|date=2016年12月}}を学びとることが求められている。[http://ten.tokyo-shoseki.co.jp/text/kou/kokugo/index.htm#7 平成20年度改訂版 東京書籍「現代文1」(現文031)]
高校1年2学期(12月)</ref>。[[1985年]](昭和60年)には[[フランス]]における最初の[[日本語]]のアグレガシオン(教授資格試験)の和仏訳、テキスト分析の試験問題にも選ばれている<ref>J.J.オリガス「発見、再発見」、「みすず」編集部編、『丸山眞男の世界』、p. 58</ref>。
 
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丸山の[[ゼミナール]]からは多くの政治学者・政治思想史家を輩出した。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、[[マルクス主義]]の[[政治学]]に対する'''近代政治学'''として[[日本]]の政治学界において一大勢力をなした{{要出典|date=2016年12月}}。日本政治思想史専攻以外にも、[[篠原一 (政治学者)|篠原一]]、[[福田歓一]]、[[坂本義和]]、[[京極純一]]、[[三谷太一郎]]といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。
 
狭義の政治学界の外でも、[[社会科学者]]の[[小室直樹]]などは丸山眞男から政治学を学び、作家[[庄司薫]]<ref>小説『[[赤頭巾ちゃん気をつけて]]』で主人公が憧れる思想家は丸山をモデルにしていると言われる。</ref>、異色官僚の[[天谷直弘]]<ref>[[経済産業審議官|通産審議官]]を務め、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』をもじった「坂の下の沼」の「町人国家論」などの言説で知られる。</ref>、[[社会民主連合]]創設者で、[[参議院議長]]となった[[江田五月]]、[[教育学者]]の[[堀尾輝久]]なども丸山ゼミ出身。亡き後の政治学界や言論界にはなお崇拝者{{要出典|date=2016年12月}}、信奉者{{要出典|date=2016年12月}}が多く、戦後日本を象徴する[[進歩的文化人|進歩的知識人]]の一人であった。
 
== エピソード ==
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* [[東大紛争]]では、全共闘の学生から、東大教授という立場に寄りかかった権威主義者、大衆から遊離した貴族主義者であるとして批判された{{要出典|date=2016年12月}}<ref>この背景には、在野知識人とりわけ吉本隆明による丸山批判が大きく影響したとの見方がある{{要出典|date=2016年12月}}。</ref>。
* 丸山の議論は西欧にあって日本にないものを指摘する「欠如理論」である<ref>日本には民主主義や個人主義の伝統がない等。神島二郎『近代日本の精神構造』P326</ref>という批判もある。
*日本ファシズム論の定義が曖昧であるという批判があり{{要出典|date=2016年12月}}、[[谷沢永一]]も以下のように批判した。日本ファシズムの概念規定が『増補版 現代政治の思想と行動』のどこにもでてこないこと。同書において、日本国民を二分し、第一類型には工場主や自作農、学校教員など、第二類型には都市における文化人やジャーナリスト、学生層などと規定したこと。日本社会の中堅層である前者に対し、日本にファシズム運動があったか否かの検証もないままファシズムの社会的基盤であると断定し、かつ疑似インテリゲンチャもしくは亜インテリゲンチャと呼んで軽蔑していること。そして以上の理由から丸山眞男を差別意識の権化とした<ref>谷沢永一『悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人』クレスト社 1996年2月</ref>。
* 1990年代後半以降には、[[姜尚中]]、[[米谷匡史]]あるいは[[酒井直樹]]等のような[[ポストコロニアル理論|ポストコロニアリズム]]の立場から、「国民主義」や、[[民族主義|ナショナリスト]]としての一面を批判されている<ref>情況出版編集部編『丸山真男を読む』(情況出版、1997年)</ref>。しかし、このような見方に対しては、[[斎藤純一]]、[[葛西弘隆]]等のような思想史研究の立場から、確かに丸山は1950年代頃までの論考で明治期の日本国のナショナリズムを肯定的に評価する面があったにせよ、それ以降においては多元主義あるいは市民社会をより重視するようになっていたとする指摘がある<ref>斎藤純一「丸山眞男における多元化のエートス」(『思想』第883号、1998年1月)、葛西弘隆「ナショナル・デモクラシーと主体性」(『思想』第896 号、1999年2月)</ref>。
* 日本政治[[思想史]]研究に対しては、近世思想史の解釈が恣意的<ref>「自然」と「作為」という概念を無理にあてはめている等</ref>との批判がある。また、経書学・日本思想史の立場から、漢籍読解の稚拙さを指摘する論考もある。{{要出典|date=2016年12月}}
* 丸山のゼミナール出身である[[橋川文三]]は、師を継承しながらも、論文「昭和超国家主義の諸相」にて、丸山に批判を加えた<ref>『橋川文三著作集 5』(筑摩書房、新版全10巻)より</ref>。
* [[梅原猛]]は、思想的伝統が日本には形成されなかったと定義する丸山に対し、『[[法華経]]』などの古典を読まず、また、日本の美術、文学、風俗を調査せずにその様な断定を行うのは許しがたいと批判した<ref>梅原猛『美と宗教の発見』(筑摩書房、1969年、新版 ちくま学芸文庫)</ref>。