「ヴァンダル王国」の版間の差分

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{{main|テオドリック|東ゴート王国}}
 
トラスムンドの政治は盤石なものに見えた。しかし、トラスムンドと東ゴート王国との関係はしだいに悪化した。トラスムンドは東ゴートの国防への協力を出し惜しんだのである。東ローマ帝国がイタリア南部に出兵した際、トラスムンドは艦隊を派遣して敵を撃退しなかった。また、西ゴート王国の内乱では東ゴート王国に対立する武将を支援するなど公然と利敵行為を働いた。これがヴァンダル王国の外交上の孤立を招いていく。[[東ローマ帝国]]では[[アナスタシオス]]帝が世を去り、[[ユスティヌス]]が帝位に就いた。新帝はカトリック保護を打ち出し、周辺国の宗教紛争に介入の姿勢を見せた。東ローマは[[フン]]王国の脅威も去り財政状況も好転しはじめ軍の再強化を進めていた東ローマによる地中海再征服の機運が次第に高まっていた。トラスムンドは[[ムーア人]]の反乱に対する内地の要塞を強化した他、港湾を拡張して国の備えを固めた。[[カルタゴ]]にローマ・ゲルマン様式の宮殿を造営したり[[ローマ浴場]]を復旧するなど文化面での発展を促したトラスムンドであったが、後継者に恵まれず、トリポリタリアのムーア人による地方反乱にも鎮圧に失敗するなど王国の軍事力の陰りは明らかで、以後の代で内憂外患はさらに深刻となった。
 
フネリックの子{{仮リンク|ヒルデリック|en|Hilderic}}王(在位[[523年]]-[[530年]])は、王位をついに射止めたが60代を過ぎすでに老齢に達していた。彼は先のローマ占領の際に連れてこられた[[西ローマ帝国]]の皇女[[エウドキア]]の血を引いていたため最もカトリック教会寄りの王であったが、恐怖政治を強いたフネリックの子であったため政治的なイメージが悪く、民衆の支持を得られなかった。ヒルデリックは戦争にはほとんど興味がなく、身内の[[ホアメル]]({{lang-en-short|Hoamer}})に任せていた。外交に関しては意欲的に東ローマ寄りの外交政策を推進した。しかし、東ゴート王国から先王に嫁いだアマラフリーダが外交の障害となっていた。そのため、アマラフリーダを反乱罪を理由に殺害するなどの挙に出ている。妹を殺されたテオドリック王は怒り、ヴァンダル王国と東ゴート王国の関係はこの一件を契機に悪化の一途となった。530年、ホアメルがムーア人との戦争に敗北すると、王家の一部が反乱を起こし、トラスムンド王の甥[[ゲリメル]](在位[[530年]]-[[533年]])が王位に就いた。ヒルデリックやホアメルらは牢獄に入れられた。