「越智氏」の版間の差分

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[[寛仁]]2年([[1018年]])に、[[伊予国|伊予守]]「[[源頼光]]」が「[[藤原道長]]」に[[土御門殿]]の家具一切を献上したとあり、11.[[12世紀]]から国営支配の実権を握っていたのは[[在庁官人]]と呼ばれた地方豪族だったことからも、[[源氏]]は伊予守時代に越智氏と何らかの関係性が考えられ、[[源頼光]]が[[清和源氏]]三代目で、異母弟に[[源頼親]]が居ることや、越智氏のその後が表立って伊予で確認出来ない時期的なことからも、活躍の場を大和に移したとしても不思議ではない。
 
[[河野氏]]の記した『[[予章記]]』などで語られることの多い越智氏だが、[[孝霊天皇]]の第三[[皇子]][[彦狭島命|伊予皇子]]の第三[[王 (皇族)|王子]]を祖とするなどの粉飾が加えられていたりと信憑性に乏しく、越智氏自体の歴史はらないことが多い。一般に越智氏系譜は河野氏系譜と混同視されており、疑問を投げかける声は少なくない。
 
[[今治市]][[大三島町]]の[[大山祇神社]]によれば河野氏を分家した後も代々ここの神職(大祝職)を担い、鎌倉時代には家名を大祝氏と名を変え現在これを担う三島家へと姿を変えたとされている。また、越智の姓は現在でも今治市で最も多い姓として現代に残されている。