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楊堅と[[独孤伽羅]](のちの独孤皇后)の間に生まれた。[[北周]]のとき、祖父の[[楊忠]]の軍功により、楊勇は博平侯に封ぜられた。楊堅が北周の政権を掌握すると、楊勇は世子に立てられ、[[大将軍]]・左司衛に任じられ、長寧郡公に封じられた。洛州総管・東京少冢宰として出向し、旧[[北斉]]の地を統轄した。のちに上柱国・[[大司馬]]・領内史御正として禁衛のことを司った。楊堅が[[禅譲]]を受けて帝位につき、隋を建国すると、楊勇は皇太子に立てられた。
 
楊勇は学問を好み、詞や賦を得意とし、性格は寛大で温厚であり、[[明克譲]]・姚察・陸開明らの文人を召し出して友とした。しかし奢侈で礼節に欠けるところがあり、文帝はこれを喜ばなかった。また多くの側妾をかかえ、とくに雲昭訓を寵愛し、正妃の元妃は顧みられないまま病没した。これに独孤皇后は不満で楊勇を責めた。次弟の晋王[[煬帝|楊広]]は、母の独孤皇后が兄に対して不満を持っていることを知ると、側妾を持たず蕭妃だけを愛しているように見せかけた。楊勇を嫌った独孤皇后は次第に楊広の行いを賞賛するようになり、楊勇を太子から廃して、楊広を太子に立てようと考えた。文帝は[[楊素]]を派遣して楊勇の行いを観察させると、楊素は楊勇を故意に怒らせて、楊勇が怨嗟を抱えているという話を作り、文帝の猜疑を深めさせた。皇后と楊広は人を介して、楊勇に対する讒言を繰り返し、文帝も楊勇が逆恨みをしていると信じるようになった。[[600年]]、文帝は楊勇を太子位から廃して庶人に落とし、楊広を太子に立てた。
 
ときに朝廷では楊勇が罪なくして廃されたという声もあったが、文帝は聞き入れなかった。楊勇もしばしば文帝に面会を求めたが、楊素が楊勇はすでに心神喪失して癲鬼が憑いており回復不能であると言って、文帝と楊勇の面会を阻止した。