「フランツ・ヨーゼフ・マクシミリアン・フォン・ロプコヴィッツ」の版間の差分

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フェルディナント・フォン・ロプコヴィッツ侯爵(''Fardinand Fürst von Lobkowitz'', 1724年 - 1784年)とその妻でカリニャーノ公[[ルイージ・ヴィットーリオ・ディ・サヴォイア=カリニャーノ|ルイージ・ヴィットーリオ]]の娘であるガブリエッラ(1748年 - 1828年)の間の一人息子として生まれた。[[ランバル公妃マリー・ルイーズ|ランバル公爵夫人]]は母方の叔母にあたる。1792年8月2日、シュヴァルツェンベルク侯[[ヨーゼフ1世・ツー・シュヴァルツェンベルク|ヨーゼフ1世]]の娘カロリーネ(1775年 - 1816年)と結婚し、間に長男{{仮リンク|フェルディナント・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ|de|Ferdinand von Lobkowitz (Industrieller)|label=フェルディナント・ヨーゼフ}}を始め12人の子女をもうけた。1786年にザーガン公領を[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント]]公[[ペーター・フォン・ビロン]]に売却し、1789年に所領に由来するラウドニッツ公爵位を皇帝より授けられた。1803年に[[金羊毛騎士団]]の騎士に叙任された。
 
本職の軍務をこなすかたわら、美術、文学、音楽など芸術活動の熱心な後援者として知られていた。侯爵自身も音楽的才能を持ち、すぐれたバイオリン奏者だった<ref name="Geiger">''Die ZEIT'' vom 5. Juli 2012, S. 18</ref>。ロプコヴィッツは経済力のない作曲家たちを支援し、彼らの作品が一般社会に認められるよう奔走した。[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]の楽曲の注文主となり、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]の作品が公の演奏会で紹介されるよう取り計い、彼らに活動資金を与えた。ロプコヴィッツは{{仮リンク|ロウドニツェ・ナド・ラベム城|cs|Roudnice nad Labem (zámek)|label=ラウドニッツ城}}、{{仮リンク|イェゼジー城|de|Schloss Jezeří|label=アイゼンベルク城}}、ウィーンの{{仮リンク|ロプコヴィッツ宮殿 (ウィーン)|de|Palais Lobkowitz (Wien)|label=ロプコヴィッツ宮殿}}の3つの居館それぞれにオーケストラを雇い入れており、時には自身もオーケストラと共演することもあった。{{仮リンク|ウィーン音楽愛好協会|de|Gesellschaft der Musikfreunde in Wien|label=ウィーン音楽愛好協会}}、ボヘミア音楽文化振興協会、ウィーン演劇事業協会の会員でもあり、市民階層に芸術への関心を持たせる運動にも支援を行った。芸術振興に私財を惜しみなくつぎ込んだため、晩年には資金難に悩まされた。
 
ベートーヴェンの[[交響曲第3番 (ベートーヴェン)|交響曲第3番「エロイカ」]]は、1804年にロプコヴィッツがラウドニッツ城付属オーケストラに演奏させたのが初演となった。