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[[ファイル:Place for 2600th Anniversary Celebration of the Japanese Empire.JPG|thumb|300px|1940年(昭和15年)11)11月11日<br>紀元2600年記念式典会場]]
'''紀元二千六百年記念行事'''(きげんにせんろっぴゃくねんきねんぎょうじ)とは、[[1940年]](昭和15年)に[[神武天皇即位紀元]](皇紀)2600年を祝った一連の行事を指す。本ページでは記念行事に記念事業も加えて記述する。
 
== 概要 ==
[[西暦]]1940年(昭和15年)が[[神武天皇]]の[[即位]]から2600年目に当たるとされたことから<!-- 神武紀元元年は紀元前660年、すなわち西暦-659年 -->、日本政府は[[1935年]](昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、[[橿原神宮]]や[[天皇陵|陵墓]]の整備などの記念行事を計画・推進した。[[1937年]](昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会」(総裁:[[昭和天皇]]の弟宮・[[秩父宮雍仁親王]]、副総裁:[[内閣総理大臣]]・[[近衛文麿]]、会長[[徳川家達]])を創設。「[[神国]]日本」の[[国体]]観念を徹底させようという動きが時節により強められていたため、これらの行事は押し並べて[[神道]]色の強いものであった。[[神祇院]]が設置され、橿原神宮の整備には全国の[[修学旅行]]生を含め121万人が勤労奉仕し、[[外地]]の[[神社]]である北京神社、[[南洋神社]]([[パラオ]])、[[建国神廟]]([[満州国]])などの海外神社もこの年に建立され、神道の海外進出が促進された<ref>「神道、海を渡る」大阪朝日新聞昭和16年5月24日</ref>。また、研究・教育機関では、[[皇學館大学|神宮皇學館]]が[[旧制専門学校]]から[[旧制大学]]に昇格した。
 
[[日本政府|日本政府]]は、日本が長い歴史を持つ偉大な国であることを内外に示し、また[[日中戦争]]([[支那事変]])の長期化とそれに伴う物資統制による[[銃後]]の国民生活の窮乏や疲弊感を、様々な祭りや行事への参加で晴らそうとしたこともあり、1940年(昭和15年)には、年初の橿原神宮の[[初詣]][[中継放送|ラジオ中継]]に始まり、[[紀元節]]には全国11万もの神社において[[例祭|大祭]]が行われ、[[展覧会]]、[[体育大会]]など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催された。
 
1940年(昭和15年)11月10日、[[皇居外苑|宮城前広場]]において[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]臨席の下、[[内閣 (日本)|内閣]]主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に開催された。11月14日まで関連行事が繰り広げられて国民の祝賀ムードは最高潮に達した。また、式典に合わせて「[[皇紀2600年奉祝曲]]」が作曲された。
 
長引く[[戦争]]による[[物資]]不足を反映して、参加者への接待も簡素化され、また行事終了後に一斉に貼られた[[大政翼賛会]]の[[ポスター]]「祝ひ終つた さあ働かう!」(祝い終わった さあ働こう!)の標語の如く、これを境に再び引き締めに転じ、その後戦時下の国民生活はますます厳しさを増していくことになる。
<gallery>
ファイル:Lets celebrate energetically and cheerfully.JPG|11月14日までのポスター「祝へ!元気に 朗かに」
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== 紀元二千六百年式典 ==
[[ファイル:Kokaden 20070812.JPG|thumb|250px|[[江戸東京たてもの園]][[ビジターセンター]](旧光華殿)<br>[[2007年]](平成19年)[[8月12日]]]]
内閣主催の「紀元二千六百年式典」が11月10日に[[皇居外苑|宮城外苑]]で挙行された。式典のために[[寝殿造]]の会場(光華殿<ref>光華殿は式典後の[[1946年]](昭和21年)8月に[[小金井公園|小金井大緑地]]に移築され、その後武蔵野郷土館となり、現在は[[江戸東京たてもの園]]の[[ビジターセンター]]となっている。</ref>)が設営された。式次第は下記の通り。
* 開会の辞([[近衛文麿]][[内閣総理大臣|首相]])
* [[君が代|国歌]]奉唱
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爾臣民其レ克ク嚮ニ降タシシ宣諭ノ趣旨ヲ体シ我カ惟神ノ大道ヲ中外ニ顕揚シ以テ人類ノ福祉ト万邦ノ協和トニ寄与スルアランコトヲ期セヨ}}
 
この模様は[[日本放送協会]](現在の[[NHKラジオ第1放送]])により[[ラジオ]]で実況中継された<ref>当時、日本には事実上の[[国営放送]]である[[NHKラジオ第1放送]]しかなかった。民間放送が始まるのは[[日本の降伏|敗戦]]後の[[1950年代]](昭和25年-昭和34年)</ref>が、天皇の勅語の箇所は放送が中断された。これは、ラジオの聴取者がどのような姿勢・体勢で放送を聴いているかがわからないため<ref>当時は一般国民が天皇の声を聞くことさえ大変畏れ多いとされ、直立不動の姿勢を取らなければならなかった。</ref>、[[不敬罪|不敬]]とされる状況が生じるのを避けるための措置であった。天皇の肉声が正式なプログラムとして初めてラジオで流れるのは、1945年(昭和20年)の[[ポツダム宣言]]受諾を伝える[[玉音放送]]である。
 
[[ファイル:Celebrating Gagaku Music in Imperial 2600.JPG|thumb|紀元二千六百年記念奉祝会(11<br>1940年(昭和15年)11月11日]]
なお、翌日11日には同会場で奉祝会が行なわれ、[[高松宮宣仁親王]](奉祝会総裁代理)と[[ジョセフ・グルー]](第13代[[駐日アメリカ合衆国大使]])による奉祝詞奏上、奈良朝風の奉祝舞楽「悠久」の演舞、高松宮による聖寿万歳三唱などが行なわれた。参列者にはお祝いの[[食事]](食饌)が用意されたが、[[日本酒]]のほかは[[パン]][[果物]]など簡素なものにとどめられた。
 
また、紀元二千六百年祝典[[記念章]]が制定され(昭和15年7月27日勅令第488号「紀元二千六百年祝典記念章令」第1条)、紀元節又は紀元二千六百年式典に招かれた者(同第3条1号2号)及び式典の事務並びに要務に関与した者(同3号)に授与された(同第3条)。